九月十六日(土)丙午(舊七月廿六日 曇天

 

今日の讀書・・今日から、學習院さくらアカデミー、秋の講座、《源氏物語をよむ》 が再開されました。八月の 《今鏡を読む》 のときには、學食が夏休みでしたので、今日はどうかなと恐る恐るうかがつたところ、開いてゐましたので、さつそく二五〇圓ラーメンをいただいてから、「南1號館」に向かひました。

 

キャンパスには若い男女がいつぱい。この年になつて、また大學で勉強するなど考へてもゐませんでしたが、若い人たちを見てゐると、もつと勉強してゐればよかつたなあと反省をこめて思はざるを得ません。でも、まあ、いやな仕事をしないですんだぼくの今までの人生を振り返つてみると、妻が言ふやうに、後悔しなくてもよいやうな生き方ができたことは感謝です。それも、妻の助けといふか、犠牲の上で成りたつた生活でしたけれど・・・。

 

で、講師は伊東先生。聽講者は九人(男四名、女五名)に増えてゐました。けれど、新しい方はお二人で、春の講座の八人のうちお一人がぬけたので、それで九名となつたのでした。いやはや、みなさんやる氣満々のご樣子で、ぼくもぼ~つとしてはゐられませんでした。

 

その第一回(通算十一回)目、『源氏物語』 〈桐壺〉 の卷の途中からです。若宮(源氏)が、高麗人の相人(人相見)にみてもらつたところ、「國の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相」があるけれども、それでは、「亂れ憂ふること(世が亂れ民が苦しむこと)」が起こるであらうといふのです。それで、「源氏」姓を賜つて臣籍に下してしまふといふところでした。 

それは、「春宮の祖父大臣など」が、(天皇の外戚になれるかどうかといふ時期ですから)、桐壺帝が、桐壷の更衣の忘れ形見で、お氣に入りの若宮を春宮にしたりしたら大問題だとして、若宮を憎んでゐたからでありまして、その憎しみを避けるためには、臣下にしてしまふしかなかつたからであります。 

けれども、後々、源氏は、(父桐壺帝の女御・中宮であつた)藤壺との間に出來た不義の子が、「冷泉帝」となることによつて、天皇の父になつてしまふわけで、そのことからすると、高麗人の相人が、「國の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相」があると言つたことは實現してしまふのであります。とぼくは理解しました。

 

ところが、この、「國の親」を調べると、「①天皇。また,太上天皇をいう語。②皇后。また,天皇の生母をいう語。国母(こくも)。」とされてゐて、「天皇の父」といふ意味はないやうなのであります。もちろん源氏は天皇にはなりませんでしたし、知る人ぞ知る天皇の父となつたわけで、「天皇の父」といふ意味がないとすると、相人の豫言はやはり當たらなかつた、といふか、ここではそんな先のことまで紫式部は考へてゐなかつたことになります。

ところが、源氏は、天皇として退位したわけではないのに、最終的に「准太上天皇」にはなるわけで、「國の親」に太上天皇の意味があるとすると、やはり、豫言は當たつたとみていいのではないでせうか。さう思ひますけれど。

ちなみに、先生のお話によると、史實的に、「准太上天皇」はゐなかつたやうであります。

そんなわけでしたが、講義のなかで、ちよいと面白い意見交換ができたのは有益でした。 

 

臺風が近づき、雨が終日降るといふ豫報だつたので、大きな傘を持つて出たのに結局降りませんでした。それで、歸路、神保町に寄り、久しぶりに、アルカサールの和風ステーキをいただくことができました。 

また、持つて歩いた、池波さんの 『梅安針供養 仕掛人・藤枝梅安』 を讀み終へることもできました。 

 

今日の寫眞・・神保町、三省堂二階の喫茶店で、八木書店で求めた一〇〇圓の 『西鶴』(大東急記念文庫公開講座講演録) と。それと、同じ神保町にあるアルカサールでいただいた和風ステーキ。久しぶりで、美味しいかつた。だけでなく、食欲がでてきたことに自信がもてました。