八月廿三日(水)壬午(舊七月二日朔日・處暑) 晴たり曇つたり

 

今日の讀書・・永井路子著 『望みしは何ぞ 王朝─優雅なる野望』(中公文庫) を今日も繼讀。ちやうど、先日の講義で讀んだ 『今鏡』 の部分とかさなるところでした。主人公は、道長の第二夫人明子の三男、能信。小説とはいへ、道長周邊の人々の「忖度(そんたく)」事情が描かれてゐて、氣が休まりません。 

 

《東京散歩 じゆんの一歩一》 第十回のつづき

 

そこは、日本醫科大學の裏手にあたる場所で、その名のごとき「解剖坂」を上りました。さういへば以前歩いたことがありましたが、まさか、「解剖坂」といふ名前がついてゐるとは思ひませんでした。白衣の、だが學生顔した若者が荷物を持つて上り下りしてゐました。まさか新鮮な臟器ではあるまい、とは思ひましたが?

 

さて、上りきつたところに、ここも再訪問になりますが、夏目漱石舊居跡がありました。英國から歸國後、四年弱住んだところのやうです。 

地圖によればゴールまであと少しです。根津神社裏通りにあたる、日醫大つつじ通りを横斷し、ここからは初めての道でしたが、なんとものの數分で東京大學農學部の塀にたどり着くことができました。表通り(本郷通り)に出たら、そこが地下鐵南北線の東大前驛入口でした。 

ガイドブックによれば、ここがゴールなんですが、ぼくは、農學部の中に見たいところがあつたので、それらを見終はつたところを終點としました。 

 

東大農學部、なんとなくぼくは親近感をもつてゐるのですが、その理由をたしかめに、構内に入りました。まづ、門衛のおぢさんに聲をかけて、それらの場所を敎へていただきました。最初は、「朱舜水先生終焉之地」碑です(註一)。以前は、門を入つたすぐ左手にあつたはづなんですが、ずつと奥の方に移されてゐました。

 

つづいて、「上野英三郎博士とハチ公」の銅像です。これは最近建てられた像で、さう、もともとは、ここに朱舜水先生終焉之地」碑があつたのを、入れ替へたんですね。まあ、それはさうと、この銅像、實にいいです。博士を見上げるハチ公の表情が何とも言へず、胸があつくなつてしまひました(註二)。澁谷のハチ公は、まあ、あれは單なる置物ですね。 

 

最後は、「農学資料館」です(註三)。確かめたかつたことがあつたのです。それは、鈴木梅太郎先生の業績についてです。以前讀んだ本のなかにあつた、鈴木先生が開發した病氣治療の方法をバカにしたお偉いさんがゐたといふ事についてです。 

ありました。「鈴木梅太郎先生切手」を紹介した文面の左に貼られた紙面でした。

 

「当時、脚気は原因不明の難病と考えられており、医学界では細菌感染が原因であると考える説が優勢であり、脚気は 『オリザリン』 欠乏症であるという鈴木の説はほとんど顧みられることはなかった。東京化学会での発表について伝え聞いた著名な医学者が、『鈴木が脚気に糠(ぬか)が効くと言ったそうだが、馬鹿げた話だ、鰯の頭も信心からだ、糠で脚気が治るなら小便を飲んでも治る・・・』 と言った、という逸話も残っている。」

 

何を隠さう、この 「著名な医学者」 とは、當時、陸軍軍醫としての最高の地位である軍醫總監であつた森鴎外その人なのであります。その結果、數萬人の陸軍兵士を死なせてしまつたのでありまして、反對に、鈴木先生の治療法を採用した海軍の兵士に死者は出ませんでした(註四) 

これを知つて以來ぼくは鴎外が好きでなくなりました。軍醫總監といふ地位にゐなければ、どうでもいいことですよ。何を考へても、また口にしても。しかし、鴎外の手には、若い軍人の命が握られてゐたんです。いやどんないい作品を書いたか知りませんが、少しは知つてゐますが、それ以來讀まなくなりました(實際には、『大鹽平八郎』を讀んでしまひましたけれど)。あと二人、同じやうな理由で讀まないのは、正岡子規と司馬遼太郎です。和歌の傳統文化を破壞し、歴史を歪曲した責任者たちです(註五)

 

以上、ぼくの思ひは滿たされて、改めて歩數と時間をチェックしましたら、一二時三〇分、ガイドブックのコースの行程は、正味、一一二二五歩でした。 

しかし、なほも歩きつづけ、晝食を、「追分一里塚」の斜向かいの天ぷら屋でいただき、本郷通りの古本屋をのぞきながら、本郷三丁目交差點の大學堂書店をもつて終りとしました。一三八〇〇歩でした。 

元氣に歩くことができましたし、知的好奇心も滿たすことができました。それにしても暑い一日でした。 

 

註一・・朱舜水(16001682)は、中国明の儒学者であったが、明の滅亡に際し援助を求め7回来日し、清の成立に伴い亡命し、帰化した。 

寛文5(1665)水戸徳川家の2代藩主光圀に招かれ、独自の古学による古今の儀礼を伝授した。また、水戸学思想に大きな影響を与えたとさせる。 

 

註二・・弥生キャンパスの農学部正門を入ってすぐ左に 上野英三郎博士とハチ公」像 があります。ハチ公の飼い主であった上野英三郎博士は、農業土木学者であり旧東京帝国大学農学部の教授でした。犬好きだった上野博士は1924年、念願だった秋田犬を購入し、ハチと名付けて大変かわいがっていました。しかし翌年、上野博士は大学で講義中に脳溢血で倒れ急逝してしまいます。飼い主が帰ってこないと思ったハチは、上野博士が長期出張から帰ってくる際にいつも利用していた渋谷駅で、来る日も来る日も博士の帰りを待ちます。それはハチが死ぬまで、およそ10年間にも及びました。これらの出来事は、人と動物の深い愛情の交流を如実に示していると言えます。

 

註三・・農学資料館では、農学生命科学研究科所蔵の貴重な資料を展示しています。 

〈主な展示物の紹介〉 国牛十図(複製)、忠犬ハチ公の臓器、忠犬ハチ公の飼い主・上野英三郎教授の胸像、鈴木梅太郎先生切手、2015年マルクス・ヴァーレンベリ賞賞状(複製)、農学140寄附者記念銘板 

我が国最大級のバイオ系学会の一つである日本農芸化学会を創立し、初代会長としてその発展の基礎を作ったのが鈴木梅太郎(1874-1943)である。 

しかし、鈴木の最大の功績として知られているのは、やはりビタミンB1の発見だろう。今から1世紀前の1911年に、米ぬか中に脚気(かっけ)を予防する新規成分が存在することを示した世界最初の論文が、鈴木により東京化学会誌に掲載された。 

 

註四・・森鴎外は、文学者として高名ではあるが、同時に、東京帝国大学をでて、陸軍軍医としての最高の地位である軍医総監にまで上り詰めた医療官僚でもありました。 

その彼が、西洋医学を絶対視し、東洋医学や民間の食事療法を蔑視したことから、軍人の食事から麦を一掃してしまい、その結果として、多くの軍人たちの命を奪うことになったのである。 

鴎外は、慈恵会医科大学の初代学長となった海軍医務局長・高木兼寛の脚気ビタミン説を、最後の最後まで否定し、海軍が脚気を根絶していたのに、鴎外は彼に敵意を燃やして高木の方法を決して受け入れなかった。 

このように、海軍ではほぼ撲滅された脚気が、陸軍では日露戦争時にいたっても改善されず、森鴎外は「意地」だけで麦飯導入を拒み、日露戦争でも陸軍では約25万人の脚気患者が発生し、約27千人が死亡するという無残なほどの事態を生み出し、戦死者の多くも脚気にかかっていたといいます。 

鈴木梅太郎が米糠からオリザニン(ビタミンB1)を発見したのちも、鴎外は一貫して細菌説に固執します。そして、その筆力をもって栄養説を批判し、鈴木を罵倒する論文をたびたび発表しました。 

鈴木の発見はまちがいなくノーベル賞に値するものでしたが、国内、とくに東大医学部からの激しい嫉妬によってノーベル委員会に推薦されることもなかったのです。 

戦中戦後、鴎外を非難する声は陸軍内部にもあったのですが、けっきょく鴎外が責任を取ることはありませんでした。 

 

どうです。「27千人」の兵士を見殺しにし、鈴木梅太郎先生を、そして高木兼寛先生を批判し、罵倒する論文を「その筆力をもって」書いて發表した人物の作品が讀めるでせうか。そこをぼくは言ひたい! 鐵砲は惡くない、使つた人間が惡い、とはよく言はれることですけれどね。 

 

註五・・司馬遼太郎については、『歴史紀行一八 我が家の古文書發見!』 參照。子規については何度も日記で取り上げてきましたが、次の一書をあげておきませう。山本夏彦著『完本 文語文』(文春文庫) のうち、Ⅲ「明治の語彙」。必讀です! 

 

今日の寫眞・・夏目漱石舊居跡。朱舜水先生終焉之地」碑。上野英三郎博士とハチ公」の銅像(二枚)。東京大学農学資料館と鈴木梅太郎先生切手」。