八月十八日(金)丁丑(舊六月廿七日 終日曇り、夕方小雨

 

今日の讀書・・學習院さくらアカデミー、《『今鏡』を読む 王朝貴族の実相を考える》 の連續講義、その三回目に行つてまゐりました。體調が心配だつたのですが、どうにか三日つづけての講義についてゆくことができました。 

敎へられるもなにも、獨學といふとかつこよささうですが、ぼくの勉強はかつてきままなものでしたから、多くの事柄について正されました。また、缺けたところを滿たしていただいた思ひでいつぱいです。

 

例へば、「こがね・しろがね・あかがね・くろがね」の言葉のもつ本來の意味。天皇の「嫡妻」は一人(皇后)か二人(皇后と中宮)か。「行幸」と「行啓」の違ひ。官僚登用に關する「科擧」と、我が國における門閥制との違ひ。「菊」が皇室の紋章となつたこと。神佛習合における、寺と神社のペア! そして、十世紀を境にして、平安京が京都と呼ばれるやうになり、文化的にいへば、梅が櫻に變はられ、かうして國風化が進み、天皇も、いはば飾り物のやうにみなされていつた時代であつたこと。これなどは、今日の象徴天皇制の先驅けといつてもよささうです。 

このやうに、本文とは直接關係ないところもありますが、ぼくにとつては、いくつも目からウロコでした。

 

内容については、「第一 すべらぎの上 雲井」 の途中から、その終はりまで。道長の三女「威子(いし)」の立后によつて、道長が榮華の絶頂を極めたこと、そして、四女「嬉子(きし)」がのちの後冷泉天皇を産んで五日目に死去してしまふことによつて、最初の翳りが生じたところまででした。 

「道長薨去」まで豫習してきたのでちよいと殘念。ただ、「ふるき物語に侍るめれば」とか、「ふるき物語にこまかにはべれば」、「むかしの物がたりにはべれば」とかが繰り返されてゐて、このあたりはまだ 『大鏡』 と重複してゐるところのやうです。 

このつづきは、來年の二月です。それまでに、ぼくは 『源氏物語』 を讀んでしまひたい。いや、それまでは倒れないやうにしたいものです。 

 

ところで、講義が終はつたあと、先生とともに、高田馬場のレストランで親睦の會食兼飮み會のひとときを持ちました。ぜんぶで十六名でした(うち男性は七名)。はじめて言葉を交はすかたばかりで、人見知りがちなぼくにはちよいとした試練でしたが、補聽器の助けもあつてか、樂しく過ごすことができました。さうですね、ふだん誰にも聞いてもらへないお勉強のことなどをお喋りできたのは、一種快感でした。で、半年後の再會をお約束してお別れいたしました。ただ、記念寫眞を撮り忘れたのが心殘りでした。 

 

また、歸路、まだ歸宅するには早さうだつたので、地下鐵東西線で九段下驛乘り換へ、神保町へ出ました。それで、ふと思ひ出して、高山書店に行きました。謠曲本を專門にしてゐる古本屋さんです。『源氏物語』 を題材にした謠曲があつたはづで、どうせ讀むなら多角的にがぼくのモットーですから、うづたかく積まれた古書の中から、やつと三册探し出すことが出來ました。 

 

今日の寫眞・・関先生から直接お安く譲つていただいた著書。もちろんサインをいただきました。それと、『源氏物語』 の謠曲本。「源氏供養」と「野宮」と「葵上」です。