八月十一日(金)庚午(舊六月廿日 曇天

 

最近元氣がないんですが、昨日出歩いたおかげで、だいぶ氣分がよくなりました。それで、今日も出かけてみることにしました。それに、金曜日恆例の古書市も開かれてゐますし、やはり古本を見て回ることがぼくの元氣の素、元氣の回復方法であることを再確認することにしました。

 

弟が出かけると言ふので、一緒に新御茶ノ水驛まで行き、古書會館を案内してあげました。今日は「書窓会」の即賣會でした。だいぶ混雑してゐましたし、興味の分野もことなりますから、そこからは別行動にしまして、ぼくはさらに、澁谷に向かひました。 

渋谷大古本市です。昨日からはじまつたやうです。場所は、澁谷東急東横店、西館8階催物場。以前にも來たことがあります。デパートの催事場としては大きな古書市ですが、いい本があつてもそれはそれは高價で、いはゆる掘り出し物はありませんでした。 

まあ、今日は、元氣の素を確認するための古本市めぐりですから、収穫にはこだはりません。それより、夕方までだいぶ時間があまつてしまつたので、どこに行かうかと考へたすゑ、先日讀んだ、池波さんの 『西鄕隆盛』 の次のやうな箇所を思ひ出しました。 

 

「大久保利通は、その後(西鄕さんがゐなくなつた後)も政治の汚濁の中に耐え、近代政治家としての再出発に敢然として立ち向い、政局のうごきを一身に負い、一歩一歩、日本の近代化の実現に邁進して行ったが、明治十一年(一八七八)五月十四日の朝、赤坂・紀尾井坂において石川県士族・島田一郎らに暗殺されてしまった。ときに四十九歳。」 

 

ぼくは、大久保利通が嫌いでした。今でもほとんどさうですけれど、それは一面的でありませう。たしかに許せないところはあつたにせよ、その時代の奔流の中で、いづれ誰かがやらなければならないことに邁進したのではないかなと思ひはじめました。それで、今日、歸りに、大久保利通が暗殺された、その現場を訪ねてみることにしたのです。

 

澁谷から半藏門線で永田町驛までは行きました。ところが、地圖を忘れてきたので、疎覺えのまま、訪ね訪ね、それでも大回りをし、どうにか到着することができました。 

赤坂見附跡の石垣の脇から地上に出、弁慶橋をわたると、紀尾井町通りがはじまりました。右手は、「紀伊和歌山藩德川家屋敷跡」。現在は、グランドプリンスホテル赤坂。左手には、井伊掃部直弼屋敷跡の地に建つホテルニューオータニがそびえ、紀尾井町通りをはさんだ東側にめざす淸水谷公園はありました。 

ちなみに、紀尾井町通りの突きあたりの左手奥、現在は上智大學となつてゐるところに、尾張藩德川家中屋敷があつたので、それぞれの頭文字を合はせて、「紀尾井町」と呼ぶやうになつたのださうです。

 

それはさておき、淸水谷公園は、ビジネスマンやタクシーの運ちやんの休憩所のやうな、喫煙所のやうな公園で、その緑に被はれた眞ん中に、その石碑はありました。實に大きな、「贈右大臣大久保公哀悼碑」でありました。一應、感慨深く見上げたものでした。 

その日の朝、赤坂見附方面からやつてきた大久保利通一行の前に刺客が立ちふさがつたのですが、明治十一年にはまだ弁慶橋はできてゐなかつたので、先ほどの赤坂見附の石垣あたりから、瓣慶濠を迂回してゐたやうです(と、まあ、詳細は、註一、二、三參照)。 

 

さて、大久保利通を訪ねたのですから、西鄕さんを訪ねないわけにはいきませんね。それで、赤坂見附驛までもどり、地下鐵銀座線で、上野に出、3153の屋上にある、銅像の前にたたずみました。いや、後ろの木陰のベンチに座つてしばらく時を過ごしました。見なれた西鄕さんですが、今日は、大久保さんとの關はりがちらほらして、やはり西鄕さんは庶民好みだなあと、つくづく思ひました。たくさんの人の往來がはげしく、やつてきた人たちは必ず西鄕さんの顔を見上げて、なんだか納得したやうな素振りでまた去つていきます。

 

西鄕さんの銅像は、説明によれば、「明治二十六年起工、同三十年竣工」です。西鄕さんをむざむざ死地に追ひやつた大久保利通の碑が、明治二十一年に建てられたことを思へば、それぢやあ、西鄕さんもと言ひ出した人々が大勢ゐたとしても不思議ではありませんね。それに、「我が国彫刻界の巨匠髙村光雲の作」でありますから、どうにか溜飲を下げることができたのではないでせうか。 

 

註一・・暗殺当日 514日早朝、午前8時ごろ、大久保は、麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発した。明治天皇に謁見するため、2頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう。午前830分頃、紀尾井町清水谷(紀尾井坂付近。現在の参議院清水谷議員宿舎前)において、暗殺犯6名が大久保の乗る馬車を襲撃した。日本刀で馬の足を切った後、御者の中村太郎を刺殺。次いで、乗車していた大久保を馬車から引きずり降ろした。大久保は、島田らに「無礼者」と一喝したが、斬殺された(享年49〈数え年〉、満47歳没)。介錯に首へ突き刺さした刀は地面にまで達していた。『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によると、大久保は、全身に16箇所の傷を受けていた。そのうちの半数は、頭部に集中していた。事件直後に駆けつけて遺体を見た前島密は、「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現している。 

島田らは刀を捨てて、同日、大久保の罪五事と、他の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良)の罪を挙げた斬奸状(註二)を手に自首した。 

 

註二・・斬奸状 島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状は、4月下旬に島田から依頼されて陸が起草したものである。そこでは、有司専制の罪として、以下の5罪を挙げている。 

国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。 

法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。 

不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。 

国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。 

外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。 

 

*註三・・「贈右大臣大久保公哀悼碑」  明治11年(1878514日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保利通の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。 

また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たちの間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治21年(18885月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。 

「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27mにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。 

「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。 平成5年(19933月 千代田区教育委員会 

 

今日の寫眞・・渋谷大古本市。「贈右大臣大久保公哀悼碑」。西鄕隆盛銅像。さいごは、彰義隊のお墓です。