七月十日(月)戊戌(舊閏五月十七日 晴、暑い

 

今日の讀書・・『源氏物語』、「若紫」の卷を、「靑表紙本」で讀みはじめました。參考書は、『日本古典文學全集』(小學館) と 『新潮日本古典集成』(新潮社) の二册です。 

それと、柴田錬三郎著『弱虫兵藏』、〈柴錬劍鬼シリーズ〉最終卷を讀み終へました。 

 

《東京散歩》〈コース番號九〉「ミュージアムめぐり」 (つづき)

 

「紙の博物館」をあとに、「飛鳥山博物館」と「渋沢史料館」を素通りし、本郷通りに出て、そのまま歩いてしまへば、駒込驛へ直行してしまひます。ガイドブックに、「ルート上の街道時代の名残りを見逃さないように」とありましたから、地圖をよく見ながら進みました。 

まづ、ゲーテの小径なんていふ、どこがゲーテなのか、道をゆくと、すぐにその右手に大きな建物が現れました! それがゲーテ記念館で、通りの名はこれにちなんでゐるやうなのですが、これは、「実業家・粉川忠が収集したゲーテの作品や資料を展示する資料館」ださうです。

 

再び本郷通りに出たところは、滝野川警察署の前で、第6回の散歩のときに立ち寄つた、西ヶ原一里塚が左手に見えました。貴重な街道時代の名殘り」ですが、今日は寄らないで、街道を右手にとり、南下いたしました。 

街道をはさんだ向かひには、「国立印刷局 東京工場」の表門がながめられました。やはり第6回の散歩のときには、JR線沿ひの裏門の前を通りましたが、表通りから見るととても大きな建物で、しかも警備も嚴重のやうであります。 

いや、よけいなことを言ふと危險ですので、さらに歩みを進めますと、平塚神社の鳥居がつづき、すると右側に塀が現れ、これが地圖にある、「旧古河庭園」のやうです。飛鳥山から直線にすれば、ほんのわづかな距離でありました。

 

正門から入りました。するとすぐ目の前に西洋館と芝生の庭園がひろがり、さらに奥は土地が落ち來むやうにやうに低くなり、途中にはバラ圓が、その先には木々にかこまれて池も見えました。が、ぼくは、はじめから觀賞する氣持ちなどありませんでした(註一)。 

そもそも、「旧古河庭園」は、あの足尾鑛毒事件の元凶、古河市兵衛とその一族の所有だつた所なのであります。『死ぬまでに見たい洋館の最高傑作』 と言ふ本の中で取り上げられてゐるやうですが、ぼくはこんな人血を煮詰めて作つたやうな建物や庭園を見たくもないし、許すことができません。と言つてしまへば、歴史上の素晴らしい建造物のほとんどは同じやうなものでせうが、特にこの舊古河庭園についてだけは、聲を大にして申し上げなければなりません(註二)

 

いやあ、久しぶりに熱くなつてしまひましたが、怒らなければならないことは、ときどき思ひ出さないと、現在の世の中を見る目をぼかしてしまひますからね。 

さて、なんだか疲れてしまひまして、「街道時代の名殘り」なんかどこにあつたのか、ちよいと後ろ髪を引かれる思ひがしないではありませんでしたが、ゴールの駒込驛に向かひました。それもほんのわづか、本郷通り霜降橋交差點を左に折れ、駒込銀座の通りに入つたかと思つたら、すぐに駒込驛東口でした。 

時間は、一一時二〇分。〔所要〕4時間でしたが、一時間三〇分で完歩。もつとも、「ミュージアムめぐり」は、折り紙だけでしたからね。また歩數は、正味五〇二〇歩でした。 

 

*註一・・旧古河庭園 1919年(大正8)に古河虎之助男爵(市兵衛の実子)の邸宅として現在の形(洋館、西洋庭園、日本庭園)に整えられた。現在は国有財産であり、東京都が借り受けて一般公開している。国の名勝に指定されている。東京のバラの名所として親しまれている。 

古河市兵衛は、古河財閥の創始者。奉公人から商才で出世し、足尾銅山に投資し「銅山王」と言われた。しかしその背後には足尾鉱毒事件や激しい労働争議などの問題を抱えていた。市兵衛には当初子がなかったので、二代目に陸奥宗光次男、潤吉を養子に迎えた。古河潤吉は1905(明治38)に古河鉱業会社を設立し社長になり、副社長に原敬を迎え合理化を計るが、同年、35歳で病没する。 

 

註二・・足尾鑛毒事件 古河市兵衛経営の足尾銅山から流出する鉱毒が原因で、渡良瀬川流域の広大な農地が汚染され、明治中期から後期にかけて一大社会問題化した公害事件。今日の公害問題の特質のほとんどをそなえているため、日本の〈公害の原点〉と称される。 

足尾銅山鉱毒問題が初めて国会でとりあげられたのは、明治24(1891)1225日の田中正造質問演説である。これより1週間前の同年1218日、「足尾銅山鉱毒加害の儀ぎに付質問書」を提出していた。「とに角、群馬・栃木両県の間を流れる渡良瀬川という川は足尾銅山から流れて」両沿岸の田畑1,200余町の広い地面に鉱毒を及ぼし、「2年も3年も収穫が無かったのである。特に明治23年という年は、1粒も実らない。実らないのみならず植物が生えないのである。」そして、18日の質問書には「去る明治21年より現今に至り毒気はいよいよその度を加え」とその鉱毒被害の経過を指摘した。しかし、農民たちの必死の訴えを国は一切無視した。この時の担当すべき農商務大臣は、古河市兵衛がその息子を養子に迎へた陸奥宗光だったのであります。

 

このやうに、銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起するものの、加害者決定されず。 

加害者責任を決定させたのは、板橋明治を筆頭代理人とした971名、群馬県太田市の被害農民達が、1972年(昭和47年)331日、古河鉱業㈱(現:古河機械金属㈱)を相手とし、総理府中央公害審査委員会に提訴。2年後の1974年(昭和49年)511日、調停を成立させた。100年公害と言われたこの事件の加害者を遂に古河鉱業と断定、加害責任を認めさせるという歴史的な日となった。 

しかし、足尾の精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。 

 

七月一日~十日までの讀書記録

 

七月一日 柴田錬三郎著 『無念半平太』 (新潮文庫) 

七月三日 「横笛草紙」 (市古貞次編『御伽草子』 三弥井書店) 

七月四日 槇野廣造著 『古都千年物語 平安朝日誌 九八〇年代』 (白川書院) 

七月七日 柴田錬三郎著 『隠密利兵衞』 (新潮文庫) 

七月九日 宮内庁書陵部藏 靑表紙本 『源氏物語〈桐壷〉』 (新典社) 再讀 

七月十日 柴田錬三郎著 『弱虫兵藏』 (新潮文庫)  

 

今日の寫眞・・ゲーテ記念館と舊古河庭園西洋館。 

田中正造と足尾鑛毒事件關係書三册。このやうな書物を讀んでみると、古河市兵衛とその企業、陸奥宗光や原敬などの政治家がつるんで、いかに非人道的で殘忍・殘酷かがよくわかります! またそこから甘い汁を吸つて野放しにしてゐる政治家と政府。いまもつて變はらないのは、そのやうな政治家を選出してゐる庶民の愚かさによるのでありませうか? 

今日、經濟優先といふことが、アベの口からどれだけ言はれつづけてきたことでせう。それは、人の命なんてどうでもいいといふ權力者や惡德商人の言ふ常套句です。原發を見れば一目瞭然。そのおこぼれにあづからうなどと思つてはいけません。良心を賣り渡すことになることは必定でありませう。