七月四日(火)壬辰(舊閏五月十一日 曇天、夜中風雨

 

今日の讀書・・『日本紀略』 一條天皇の時代、寛和二年(九八六年)七月から、永祚元年(九八九年)十二月までを讀みました。以後、寛弘八年(一〇一一年)六月に亡くなられるまでの、序文とも言へる三年半の記録でした。 

花山天皇が出家し、践祚した一條天皇はまだ七歳。母は兼家の娘詮子(つまり、道長のお姉さん)。實權は外祖父の兼家がにぎり、この時から、藤原氏の最盛期を迎へるのであります。

 

その、出家した花山法皇ですが、當座はだまされたと知つてたいへん苦しんだと思はれるのですが、その後一轉してだいぶ自由に振る舞つてをられるのであります。記録の表面に出ることは多くありませんが、特記したいのは、一條天皇が即位された(九八六年)七月廿二日のことです。 

花山法皇、出家されてまる一か月後のこの日、「徒行して、播磨國書寫山に赴き、性空聖人に謁」してゐるのであります。これ見よがしの行動とも見受けられますが、つい先日まで天皇だつた方が、わざわざ歩いて書寫山まで行かれたのには、なみなみならぬ決意といふか、性空さんに歸依されてゐたことがうかがはれて興味がわきます(註)。

 

そこで、手つとり早く、宮元啓一著『日本奇僧伝』(ちくま学芸文庫) の 「性空」 の部分を讀んでみました。 

それとともに、槇野廣造著『古都千年物語 平安朝日誌 九八〇年代』(白川書院) を讀み終はらせました。 

 

*註・・性空 平安中期の僧。橘善根の子。姫路市の天台宗寺院、書写山円教寺の開基として有名。はじめ日向(宮崎県)霧島山や筑前(福岡県)背振山などの山岳で修行したが、のちに書写山に移り住んだ。寛和1(985)年、国司藤原季孝の助力を得て法華堂を建立し、翌年、来山した花山法皇に御願寺となさんことを申請し、永延1(987)年、許されてここに円教寺が開創された。花山法皇はこののちも来山し結縁したが、このほかにも具平親王、源信、寂心(慶慈保胤)、寂照(大江定基)、和泉式部、藤原実資などの人々が結縁を求めて訪れ、貴族社会の大きな関心を集めた。長保4(1002)3月、花山法皇は2度目の結縁のため登山し、そのとき、直接に性空の行状を問いこれを記録した。これが『性空上人伝』であり、生存中の貴重な記録として『群書類従』に収められている。<参考文献>平林盛得「花山法皇と性空上人」(『聖と説話の史的研究』) 

 

今日の寫眞・・『群書類從 第五輯』 所収の 「性空上人傳」 全文。これによると、生まれたとき、にぎつてゐたこぶしを開いてみたら、「針」が有つたと記されてゐます!