六月卅日(金)戊子(舊閏五月七日 小雨のち曇り

 

今日の讀書・・『日本紀略』 花山天皇の時代を讀みました。と言つても、在位期間は二年にも滿たず、たつたの七ページ半。 

圓融天皇の譲位をうけ、十七歳で即位。しかし、右大臣藤原兼家、道兼父子に謀られ、元慶寺(花山寺)で出家させられてしまひました。 

この突然の出家について、『栄花物語』 では、寵愛した女御藤原子が妊娠中に死亡した悲しみが原因だとしてゐますが、『大鏡』 は、それに加へて、兼家、道兼父子が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるための陰謀だつたことを傳へてをります。

 

讀んでゐて目についたのが、「出家」です。もつとも、花山天皇ご自身が、謀られたとはいへ、任期半ばで出家してしまはれたのですから、そのやうな時代的雰圍氣があつたのでせう。當時は、淨土往生の敎へが廣まつてをりまして、厭離穢土といふか、欣求淨土の信仰がさかんだつたんですね。「往生論」類が書かれ、その中でも、『日本往生極樂記』 は特筆すべきものでありました。その著者の慶滋保胤(よししげのやすたね)が出家したのは必然のなせるわざであつたでせうが、それにつづけとばかりに出家、往生を願つた人々が多くゐたことがうかがはれます。 

 

寛和二年(九八六年)丙戌、正月十三日壬午、一品資子内親王、落飾して尼と爲る。 

十四日壬午、今日、從三位藤原曉子、淨土寺に於いて尼と爲る。故枇杷左大臣藤原仲平の長女也。 

廿一日己丑、後太上法皇、圓融、仁和寺より東大寺に向かひ、廿二日庚寅、東大寺に於いて具足戒を受ける。 

廿五日癸巳、大納言朝光卿の男(むすこ)、侍從藤原相中、天臺山に於いて出家。 

廿二日庚申、大内從五位下、慶滋保胤出家。 

廿八日丙寅、今日、四品盛明親王出家。五十九。醍醐第十五之子也。 

廿三日庚申、今曉丑刻ばかり、天皇密かに禁中を出、東山花山寺に向かひ、落飾。時に、藏人左少辨藤原道兼これに從ひ奉る。云云、年十九。 

 翌日、權僧正尋禪を招き、御髮を剃る。御僧名、入覺。外舅中納言藤原義懷、藏人權左中辨藤原惟成等、相次出家。皇太子、位を受け繼ぐ。 

 

と、まあ、花山院ご出家までの記事でありました。 

それと、花山天皇は和歌にすぐれ、第三勅撰和歌集である 『拾遺和歌集』 を編集したといふのです(註)。これは知りませんでした。退位後、二十二年生きられたからできたのでせう。寛弘五年二月八日、四十一歳で死去されました。 

竝んで、『古都千年物語 平安朝日記(九八〇年代)』 の花山天皇の部分も讀み進みました。 

 

註・・『拾遺和歌集』 平安時代中期の第三勅撰和歌集。二十巻。約一三〇〇首。書名は『古今集』や『後撰集』で選び残された歌を拾う集の意。撰者や成立の事情は明確でない。退位後の花山法皇の発意により,藤原公任 (きんとう) の私撰集『拾遺抄』を基にして,側近の歌人とともに増補を重ねて完成したものらしい。成立は寛弘三年(一〇〇六年)前後か。平安時代には『拾遺抄』のほうがむしろ勅撰集として考えられていた形跡がある。伝本は流布本系のほかに複雑な成立事情を反映した異本系統のものがいくつかある。春,夏,秋,冬,賀,別,物名,雑 (上下) ,神楽歌,恋 (一~五) ,雑春,雑秋,雑賀,雑恋,哀傷と類別され,四季,賀,恋の分化など『拾遺抄』の影響が大きい。『古今集』『後撰集』時代の歌人を重視する一方で『万葉集』の歌にも関心を寄せ,紀貫之の歌とともに柿本人麻呂の作と称する歌を数多くとっている点に特色がある。歌風は古今調を完成させた優美で平淡な傾向を示している。 

 

《東京散歩》〈コース番號8〉「江戸名勝探勝」 (つづき)

 

本妙寺を出て、さらに歩くと、染井靈園に突きあたりました。靑山靈園、谷中靈園とともに有名な墓地であり、「染井吉野櫻發祥の地」でもあります。でも、ガイドブックに從つて手前を左折。さらに細い路地に入つて行くと、右手は低い塀で、中は墓石で埋めつくされてゐます。染井靈園と路地とにはさまれた細長い墓地です。と、その中に、芥川龍之介の墓碑を發見。そこは慈眼寺の墓地でありまして、さらに歩いて入口から中をまた引つ返しました。すると、谷崎潤一郎(分骨のやう?)と司馬江漢のお墓も見つけました。 

司馬江漢(註一)はぼくの氣にかかつてゐる人物で、彼の本領の繪畫ではなく、その思想や紀行などに興味津々。まだ時は熟してはゐませんが、『江漢西遊日記』 と、『江戸・長崎絵紀行 西遊旅譚』 など、いづれ讀むべきものは購入濟みです。

 

再び慈眼寺の出入口までもどり、そこから染井靈園の中に入り、眞つ直ぐ横斷。できれば訪ねたかつた、二葉亭四迷や、岡倉天心や、高村光雲や、光太郎・智恵子などのお墓めぐりを斷念し、また、ガイドブックが示す、「俵藤太むかで退治の繪馬」がある染井稻荷神社や、太田道灌が戦勝祈願した妙義神社なども割愛して、染井通りを六義園に向かひました。 

山手線を越え、本郷通りに出ると、そこが六義園の染井門でしたが、出入口はさらに南といふので歩きました。長い塀です。いや正確に言ふと、塀に沿つて犇めく商店やマンションをながめながらでした。 

すでに閉門の時間が迫つてゐましたので、それで急いでやつてきたのですが、はたして庭園内には人影はちらほら。かへつてゆつくり「大泉水」をひとめぐり、渡月橋をわたり、紀川、吹上茶屋、石橋を經て回つてくることができました。 

六義園(註二)に入つたのははじめてでした。東京において、さう、ぼくが訪ねたなかでは濱離宮庭園に次ぐ規模でせうか。小石川後樂園よりは廣いと思ひます。

 

さて、ラストスパート。本郷通りをさらに南下し、ガイドブックでは東京メトロ南北線の本駒込驛がゴールでしたが、そのまま通過し、三田線の白山驛まで歩きました。 

さう、忘れてならないのは、赤目不動です。途中で江戸五色不動の一つを發見しました。前を通りかかつたら、トントコトントコ太鼓の音が、これまたリズミカルに打ちつづけられるのを聞いて、しばらく休みがてら聞き入つてしまひました。腹にひびくほどでもなく、眠りに誘はれるほどでもなく、ついつい聞き惚れてしまふ微妙な感じにしびれました。ほどなく終はつたからいいやうなもの、居續けてしまつたかもしれません。 

白山驛には、五時二〇分到着。正味一一〇一〇歩でした。 

それで、水道橋驛に出て、「かつ好」のとんかつをいただいてから歸路につきました。

 

*註一・・司馬江漢(しばこうかん) []延享4(1747).江戸,本芝 []文政1(1818).10.21. 

江戸時代後期の画家,思想家。本名安藤勝三郎または吉次郎。名は峻,字は君嶽。無言道人,春波楼とも号する。また鈴木春信の浮世絵の影響を受け,鈴木春重を名のった。初め狩野派,次いで宋紫石から南蘋派を学ぶ。のち平賀源内と交わり,遠近法,色彩,陰影など西洋画の影響を受け,油絵による日本の風景画も描いた。天明3 (1783) 年日本で初めてエッチング (銅版画) に成功。代表作『三囲之景 (みめぐりのけい) 』『銅版地球全図』など。同8年に京都,長崎,平戸などを歴遊,翌年『西遊旅譚』を著わす。主著は『西洋画談』 (99) ,『和蘭通舶』 (1805) ,『独笑妄言』 (10) ,『天地理談』 (14) ,『西遊日記』 (15) などで,地動説の普及に努め,封建的身分制度や鎖国を批判する傾向もみられる。晩年には禅宗や老荘思想に親しんだ。 

 

*註二・・六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約27千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。 

「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写して、庭園を造ろうと思い立った。その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。 

 

今日の寫眞・・司馬江漢のお墓。六義園二枚。赤目不動。

 

 

六月一日~卅日までの讀書記録 

 

六月四日 杉本苑子著 『散華 紫式部の生涯(下)』 (中公文庫) 

六月五日 藤本泉著 『源氏物語の謎 千年の秘密をいま解明する』 (祥伝社ノンブック)  

六月六日 武田宗俊著 『源氏物語の研究』 (岩波書店) 飛び飛びに・・ 

六月七日 入口敦志著 『漢字・カタカナ・ひらがな 表記の思想』 (平凡社) 

六月八日 槇野廣造著 『平安朝日記』 (ふたば書房) 

六月十日 林望著 『文章の品格』 (朝日出版社) 

六月十四日 吉岡曠著 『源氏物語論』(笠間書院) 飛び飛びに・・ 

六月十九日 丸谷才一著 『「輝く日の宮』 (講談社文庫) 再讀 

六月廿二日 丸谷才一著 『袖のボタン』 (朝日文庫) 

六月廿六日 柴田錬三郎著 『劍鬼』 (新潮文庫) 

六月廿九日 藤井貞和著 『古典講読シリーズ 源氏物語』 (岩波セミナーブックス)