六月廿九日(木)丁亥(舊閏五月六日 曇りのち晴

 

今日の讀書・・シバレンを我慢して、今日は、藤井貞和著 『古典講読シリーズ 源氏物語』(岩波セミナーブックス) を讀みあげてしまひました。「本書は桐壺の卷だけを扱っている 『源氏物語』 の講座です」。とあるやうに、まことに凝縮された内容で、たいへん勉強になりました。 

とくに、『長恨歌』 が、亡き桐壺の更衣の「鎭魂」のために利用されてゐる、といつたところは、まことに肯んずるものがありました。さくらアカデミーで、次回あたりで問題となるところなので、よい豫習にもなりました。 

 

また、夕食後、夜のピクニックといふほどではありませんが、驛裏の出張所まで、東京都議會議員選擧の期日前投票に行つてまゐりました。國會議員選擧でないのが殘念ですが、野党が力を持たないと、我が國はほんとうにダメになると思ひます。

 

《東京散歩》〈コース番號8〉「江戸名勝探勝」 (つづき)

 

また、千葉周作ですが、「劍聖」と謳はれるてゐたんですね(註一)。いま、ちやうど柴田錬三郎の劍豪ものを讀んでゐるところなんですが、小説だから讀んでゐられますが、劍道だつて恐ろしくてぼくは直視できません。どのやうな斬り合ひをしたのでせうか。まあ、ぼくは、それで人と直接對決しなくてもすむ弓道をはじめたんですが、それもだめになつてしまひましたけれど・・・。 

それに、遠山の金さん(註二)。はたして實像は。櫻吹雪はあつたんでせうか。ちなみに、大きな自然石の墓石の肩周りにはなにも彫られてはゐませんでした。 

いや、眞面目に、つぎは、今騒がれてゐる將棋。その、棋聖の天野宗歩のお墓です(註三)。 

さらに、圍碁家元本因坊歴代の墓。へ~え、圍碁は家元制度なんですね(註四)。初耳。 

さらにさらに、日本初の通譯、森山多吉郎の墓(註五)。この方についてはまつたく知りませんでしたが、ものの本によると、「嘉永六年(一八五三年)のペリー来航から幕府が倒れるまではわずか十五年でしたが、彼は相次ぐ外交交渉に心身ともに疲弊していたのでした。明治四年(一八七一年)、横浜で急死します。五十一歳でした」。とありました。覺えておかなければならない名前とその業績ですね。

 

その他にも、久世之はじめ、四代の德川將軍に仕へたといふ久世家の墓などもありましたが、ぼくの能力では、ここまでたどるのが精一杯でした。(つづく) 

 

*註一・・千葉周作(ちばしゅうさく) 寛政6(1794)~安政2(1856) 幕末の剣客。 

陸奥国栗原郡の生れで,父も剣の使い手であった。15歳で下総(しもうさ)国松戸に移り,16歳で小野派一刀流浅利又七郎義信に入門。その後も修業を重ね,北辰一刀流を唱える。 

北辰一刀流の開祖として、江戸に道場を構え、 神田・お玉ガ池の道場などは大繁盛した。 坂本龍馬や、山岡鉄舟などもその門下生だった。 何よりの特長は、防具をつけて竹刀で打ち合うことだ。 

それまでの剣道場では、硬い木刀を使っていたので、 打ち合うことが出来ず、型ばかりを教えていた。 竹刀と防具を発案したのは、中西忠太という人だが、 合理的精神の持ち主だった周作はすぐにこれを採用した上に、それまで秘伝とされてきた術を万人がわかるように、平易に伝達した。それが革命的だったために、人が押し寄せた。それが、今の剣道に繋がっている。 

 

*註二・・遠山景元 寛政5年(17938月~安政2年(18552月 江戸時代後期の武士。 

遠山景晋(かげみち)の子。作事奉行、勘定奉行をへて天保11年江戸北町奉行。老中水野忠邦や南町奉行鳥居耀蔵と対立し、大目付に転じるが、ふたりの失脚後南町奉行に就任。桜の入れ墨のある名奉行(遠山の金さん)として講談、テレビ、芝居などでとりあげられた。63歳。通称は金四郎。 

 

*註三・・天野宗歩(あまの そうほ 又は、そうふ) 文化13年(1816年)~安政6513日(1859613日) 江戸時代末期の将棋指し。正字表記では天野宗。七段。十一代大橋宗桂門下。 

大橋家、伊藤家といった将棋三家の出ではないため、当時世襲制だった名人には推挙されず、段位も七段までしか上がらなかったが、「実力十三段」と言われ、後に棋聖と呼ばれるようになる。十三世名人関根金次郎によって棋聖の称号が公式に認められた。現在のタイトルのひとつである「棋聖戦」は、ここに由来する。 

 

*註四・・本因坊 囲碁の家元の一つで、現在は囲碁の本因坊戦に優勝した棋士に与えられる称号。本因坊とは、もともとは安土桃山~江戸時代初期に織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人に仕えたとされる碁の名手・本因坊算砂を開祖とする家系で、多くの名棋士を輩出した。1938年、21世本因坊秀哉が引退を機に本因坊の名跡を毎日新聞社に譲渡し、同社がこれを日本棋院に寄贈。これにより本因坊は家元制から選手権制へと移行し、39年以降は囲碁選手権戦・本因坊戦のタイトルとなっている。 

 

*註五・・森山多吉郎 []文政3(1820)長崎~[]明治4(1871) 

幕末のオランダ通詞。初名、栄之助。家業を継いで長崎奉行所に奉職し、難破したアメリカ人捕鯨船乗組員 R.マクドナルドについて英語、オランダ語を修得。嘉永4 (1851) 年から英和辞書の編修に従事し、同6 M.ペリー、E.プチャーチン両使節が来航した際は通訳をつとめ、外国人からもその能力を称賛され、外国奉行通弁役頭取となった。文久1 (61) 年開市開港延期の目的で派遣された竹内保徳らの遣欧使節に随行、次いで外国奉行支配調役、兵庫奉行付組頭となった。この間、江戸に私塾を開き、門下から福地源一郎、沼間守一らが出た。 

 

今日の寫眞・・德榮山本妙寺山門。劍聖・千葉周作の墓。名奉行・遠山金四郎景元の墓。棋聖・天野宗歩の墓。圍碁家元本因坊歴代の墓。森山多吉郎の墓。