六月廿八日(水)丙戌(舊閏五月五日 小雨のち曇天、夜再び雨

 

今日の讀書・・今日はのんびりと、寢轉がつて時代劇。柴田錬三郎の 『無念半平太』 が面白い。いちどはまるとなかなか出られなくなる恐れがありますが、疲れたあとなどにはかかせません。 

それに、子猫とはいへなくなつたモモタとココですが、甘えん坊のモモタに加へて、ココもひとなつつこくなり、膝にのるは、橫になれば胸にあがつてくるはで、精讀もしてゐられません。 

 

《東京散歩》〈コース番號8〉「江戸名勝探勝」 (つづき)

 

さらに歩を進めて路地を行くと、總禪寺に出ました。けれど、墓地への入口がみあたりません。それで、正面の大きなガラス戸を押し開けると、おばさんがひとり待ちかまへてゐるではありませんか。恐る恐る、手塚先生のお墓まゐりをしたいのですがと申し上げると、待つてましたと言はんばかりに、お線香をあげてくださいね、とかうです。 

で、一束のお線香をとり出して、火をつけてくださいました。片方の手のひらを出すので、いくらですかと言はざるを得ません。百圓だま一つを出して交換いたしました。すると、やにはに、では案内しますと、反対側のドアを開けて墓地に導き、手塚治虫さんのお墓まで案内してくださいました。 

なんだか汗をかいてしまひ、思はず墓石の前にひざまづき、そのままお線香を石の線香置きの上に供へました。たしかに手塚治虫先生のお墓です。右には 曾祖父の醫師手塚良仙のひょろ長い墓石も立ち、左手前には、手塚先生の代表作を刻んだ石碑が置かれてゐます(註一)。なんの心の準備もしてゐなかつたので、石碑をながめながら、幼少時に親しんだアトムやら、ひげおやぢやら、火の鳥などを懐かしく思ひ出しながら休ませていただきました。 

さうさう、曾祖父の手塚良仙さんは、『陽だまりの樹』 のモデルになった蘭方醫の手塚良仙でありましたね。それと、總禪寺は、寛永元年(一六二四年)に湯島に創建され、明治三十年(一八九七年)に現在の場所に移轉したそうです。德川綱吉に特別に許可された赤い山門が建ち、道路に沿つたかたはらにその姿がうかがはれます。 

 

いやいや時間が取られます。最もかかつたのは、次の本妙寺でした。なにせ、剣豪の千葉周作からはじまつて、北町奉行の遠山金四郎景元、將棋棋聖の天野宗歩、圍碁家元本因坊歴代の墓、さらに、日本初の通譯、森山多吉郎、そして忘れてはならないのが、明暦の大火(振袖火事)供養塔です。 

明暦の大火はご存じのやうに、江戸最大の火事でした。そのわりには小さな供養塔でしたが、まあ、災害は早く忘れたいといふか、目を背けたいのが人情のやうで、それ故に反省も深められないまま今日にいたつてをります。災害の犠牲者はあとをたちません。歴史を學びそこから敎訓を學びとることつて、そんなにむづかしいことなんでせうかね。(つづく) 

 

註一・・手塚治虫(1928-1989年) 大阪府生まれ。両親の影響からマンガやアニメに夢中になる幼少期の手塚先生でしたが、戦中になると軍事教練を受けたり軍需工場での労働、昭和206月の大阪大空襲を経験しました。大阪帝国大学医学専門部に合格し、戦後になって医師免許も取得しています。医学を学んだことは、代表作であるブラックジャックに大きな影響を及ぼしたことは言うまでもありません。 

 学生時代からマンガ家としてデビューています。昭和25年にジャングル大帝、27年には鉄腕アトム、28年にはリボンの騎士と名作を生み出し続けます。 本来、アニメーションに興味があり、虫ブロダクションを設立し自身の作品をテレビアニメ化していきました。 亡くなるまで創作意欲は衰えず、生涯に700タイトル以上の作品を世に著し、描いた原画は15万枚と言われています。享年60 

 

註二・・明暦の大火 明和の大火と文化の大火とともに江戸三大火と呼ばれ、明暦の大火における害は延焼面積・死者共に江戸時代最大であることから、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失し、死者数については諸説あるが3万から10万人と記録されている。 

東京大空襲・関東大震災などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であり、ロンドン大火・ローマ大火・明暦の大火を世界三大火と考える人もいる。 

 

今日の寫眞・・先日送つていただいた館山のビワ、そのさいごのいくつかです。母と妻と三人で美味しくいただきました。それと、モモタとココ。膝にのられて仕事がはかどりません。 

手塚治虫先生のお墓と總禪寺の赤門。本妙寺にある、明暦の大火(振袖火事)供養塔。