六月十九日(月)丁丑(舊五月廿五日 晴

 

今日の讀書・・丸谷才一著『輝く日の宮』(講談社文庫) を讀み終へました。再讀でしたし、『源氏物語』 を讀みはじめたので、はじめのときとはくらべものにならないくらゐよくわかりました。また、このところ疑問に思つてゐたいくつかの事柄にも解答が與へられました。 

まづ、「輝く日の宮」 の卷の問題です。「桐壺」 のあと、「帚木」(「玉鬘系後記説」によれば「若紫」) の前に置かれてゐたと思はれる 「輝く日の宮」 の卷が、どうしてはぶかれ、除かれたのか、安佐子さん、つまり丸谷才一さんの考へとして書かれてゐて、それが詳しく説明されてゐました。 

ただ、ちよいと物足りないのは、藤本泉さんだつたら、「輝く日の宮」 は、おそらく、桐壺帝に迎へられた藤壷の宮が、義理の息子にあたる光源氏と「逢瀬」のときをもつ場面のある卷ですから、あきらかに道長の娘であり一條天皇の女御である藤壷の彰子を思ひ起こさせるわけで、それで道長に廢棄されたといふでせう。その方が、説得力があると思ひます。 

 

また、さう、紫式部がさう思つたこととして、安佐子は、「ひよつとすると道長は、光源氏と同じやうに帝の后を寝取つたことがあつて、それで 『輝く日の宮』 を破棄させた」のではないかと疑問をなげかけてゐます。むしろこのはうが理屈にあつてゐると言へるでせう。 

いやいや、もう一つ用意されてゐました。それは、曰く、「『輝く日の宮』 を除いたのではなく、あくまでもあの物語のためを思つて取り去つた」といふお答へです。 

「すべてすぐれた典籍が崇められ、讃へられつづけるためには、大きく謎をしつらへて世々の学者たちをいつまでも騒がせなければなりません。惑はせなければならない。・・・この国のつづく限り、人々は 『輝く日の宮』 の卷の不思議を解かうと努めることでせう。その力くらべと骨折りが、この物語にいつそう陰翳を与へ、作の構へを重々しくし、姿に風格を加へるはず」である、といふものです。でも、ぼくはこれについては、屁理屈ではないか、と思はざるを得ませんね。 

 

それとともに、いやそれ以上に納得し得たのは、「並びの卷」についてのお考へです。ここは是非ご本人に述べていただきませう。(・・・)はぼくの補足です。 

「b系(玉鬘系・十六帖)の卷々を書いて、すでに出来あがつてゐるa系(紫の上系・十七帖)の卷々のあひだに嵌め込んでゆくとき、どうしたかといふ問題がある。あれはおそらく(紫式部が道長に)口づたへで説明した。『並びの卷』 といふのは、もとはそのときの言ひ方だと思ふ。『若菜』 の並びが 『末摘花』 よ、とか、『澪標』 の並びの一が 『蓬生』 で並びの二が 『関屋』 とか、はじめのうちはそんなふうに口づてで。なかには消息通がゐて、本当は 『輝く日の宮』 といふ卷があつて、その並びの一が 『帚木』 で二が 『空蝉』 なのよ、なんてひそひそ話をした。つまり紫式部が仲のよいお女中に何かのときひよいと愚痴をこぼしたせいで噂が広がつた。それがおぼろげに伝はつて行つて、定家の 『奥入』 のあの記事になつた。定家はわけがわからずに、でも、貴重な伝承だと思つて書き留めた」。 

以上のお考へは、とくに 『源氏物語』 をこれから讀む者にとつて、曖昧のまま捨て置かれるよりずつといい説明だと思ひました。 

 

今日の寫眞・・今日のモモタとココ。