六月九日(金)丁卯(舊五月十五日・望 曇りのち晴

 

今日の讀書・・『日本紀略』 を繼讀してゐますが、昨日、並行して讀んできた槇野廣造さんの 『平安朝日記(九七〇年代)』 が讀み終りました。それで、その續編の 『古都千年物語 平安朝日記(九八〇年代)』(白川書院) を讀みはじめたところ、見落としてゐたことがいくつか見つかりました。

 

ひとつは、『日本紀略』 には記されてをりませんでしたが、『史料綜覽』 を見たら、天元三年(九八〇年)正月廿三日の條に、「散位源順款状ヲ上ル」と記さてゐることです。「款状(くわんじやう)」とは、嘆願書のことで、その結果、それまで無官の日々をおくつてゐた源順は能登守となることができたのです。 

當時、平安文人と呼ばれる文化人貴族がゐました。ぼくの關心のあるテーマのひとつでもあるのですが、源順はその一人で、任國へ赴く送別の宴がまうけられたときのことです。文人・慶滋保胤(註)、詩人・菅原輔昭、歌人・中務から、それぞれ得意の詩歌をもつて別れを惜しまれたのでした。しかし、源順はそのときすでに七十歳の老齢であり、事實、永觀二年(九八四年)、「能登守從五位上源順卒ス」と記録されてゐるやうに、任地の能登にて不歸の人となつたのでありました。 

 

二つめは、同じ天元三年九月三日、「延暦寺座主良源、(根本)中堂を供養する」といふ記事です。實は、承平五年(九三五年)三月六日の條に、「比叡山中堂失火、唐院傍堂舎四十宇燒失」との記事があり、延暦寺の堂宇のほとんどが燒失したことが知られてゐます。それが、四十數年にしてやつと再建できた、その供養、いはば獻堂式がここに行はれたのです。 

僧正となつて位を極めた良源さん、宮中に輦に乘つて出入りできる勅もいただいて、それでなくても鼻高々であつたでありませう。 

ところが、そんな名利を望まず、超俗奇行を貫いた增賀(ぞうが 九一七~一〇〇三)のやうな僧がゐた事も知つておきたいです。增賀さん、冷泉上皇が内供奉にとり立てようとしたら狂氣を装つて去り、皇后詮子が戒師として請ふと放屁して退いたといふのです。のち大和多武峰に隠棲しましたが、實は良源さんの弟子だつたのですから面白いですね。 

 

三つめは、同じく天元三年九月廿八日、「從三位太皇大后宮大夫源朝臣博雅薨ず」といふ記事です。源博雅と聞いてピンと來る方がをられるでせうかね。さう、安倍晴明の友人です。もちろん、夢枕獏さんの 〈陰陽師シリーズ〉 の主人公たちですが、そのなかでも、博雅さんは笛の名人とされてゐます。 

たしかに博雅さんについては、『古今著聞集』 をはじめ、『江談抄』、『十訓抄』、『今昔物語集』 のなかでさまざまなエピソードが語られてゐて、興味がつきません。

 

さて、このやうに、すべて昨日讀んだ範圍での記事でしたが、今日で、圓融帝の時代が終り、次は、『日本紀略 後篇八』 に入る豫定です。 

 

註・・慶滋保胤(よししげのやすたね 生年不詳 没年、長保4.10.21(1002.11.27) 

平安中期の下級官人、文人。陰陽家賀茂忠行の次男。字は茂能,唐名を定潭。内記入道とも。兄保憲、弟保遠が陰陽家を継いだのに対して家業を捨てて文章道に進み、菅原文時に師事して文章生となる。慶滋は本姓賀茂の訓よみ(よししげ)を別字で表記したもので、文人好みの改姓であろう。その後具平親王の侍読として仕え従五位下大内記にまで昇進するが、結局下級官人で終わっている。天元5(982)年に書いた、『池亭記』、は,50歳を前にようやく手に入れた左京の六条坊門南、町尻東の地に屋敷を構え、信仰と学問三昧の生活に安らぎを求めるに至った心境を吐露したもので、後年鴨長明の、『方丈記』、にも大きな影響を与えている。なお、『池亭記』、の前半部は右京の荒廃、左京の人口稠密化など、推移する平安京の都市的実態を活写したものとして有名。また幼いころから阿弥陀信仰に関心を持ち、康保1(964)年、自身が中心となって大学寮北堂の学生と比叡山の僧侶らで勧学会を結成、春秋2回会合して念仏と仏典研究に当たり、寛和2(986)年に出家(法名は心覚、のち寂心)するまで約20年間続けている。『日本往生極楽記』 は、わが国最初の往生伝で、その後における浄土思想の発展や説話文学に強い影響をおよぼし、のち源信の、『往生要集』 とともに宋に伝えられた。如意輪寺(左京区鹿ケ谷)で示寂、長徳3(997)年とも、70歳前後ともいうが詳らかでない。弟子に大江定基(寂照)がおり、藤原道長も「白衣弟子」と称してその死を悼んでいる。 

 

今日の寫眞・・延暦寺根本中堂。『歴史紀行五』 で訪ねたときの寫眞です。 

それと、今日のココ。