二〇一七年六月(水無月)一日(木)己未(舊五月七日・上弦 小雨のち曇天

 

先日、慈惠醫大の齒科でいただいた藥は、二種類ありました。幸ひ痛み止めのはうは飲まないですんでゐるので助かりますが、もう一つの感染症豫防のはうは飲まないではゐられません。心臟外科でも循環器内科でも、細菌には注意するやうに繰り返し言はれてきましたから承知してゐることですけれども、その細菌とやらは、蟲齒からとか、さう鍼治療の鍼からも感染する可能性があるからやめておきなさいと言はれたくらゐでした。 

ですから、齒の治療の場合には必ず抗生劑を飲んできました。ところが、その抗生劑の副作用をあらためて讀んでみたら、それがまたすごいのです。 

「不快感、口内異常感、ヒューヒューという呼吸音、めまい、耳鳴、発汗等の症状」があらはれることがありますといふのであります。それでなくても、すでに不快感はあるし、めまいも耳鳴りもありますから、これ以上どうするの、と言ひたくなります。 

齒がぼろぼろになつたのも、長年服用してきたたくさんの藥の副作用に間違ひないと思はざるを得ませんが・・・、あれまあ、讀書日記のつもりが、老いの繰り言日記のやうになつてきてしまつて、これは反省ですね。 

まさかね、三十までしか生きられないでせうと言はれてきたぼくが、七十歳まで生きられたといふことは、母に言はせるまでもなく僥倖なのでありませう。あとは、どのやうに締めくくれるのか、ぼくの人生の眞價が問はれる日々なのであります。 

 

今日の讀書・・それで、今日も讀書の本道、『日本紀略』 を讀み進み、天禄四年(九七三年)が十二月で天延元年に改元した年から、つづく天延三年までのまる三年間の記事を讀みました。 

この間、目にとまつたのは、天延元年二月の、「藥師寺が燒亡し、遺すところ金塔一基のみ」 と 同年三月の、「天滿天神北野宮燒亡」。それと、四月、源滿仲宅に強盗が入つて放火した出來事。これは、藤原家に媚びへつらふ滿仲を怨んでゐた者たちの仕業のやうです。なにせ、源高明を讒訴したのがこの満仲ですし、息子がこれまた傳説的人物の源賴光ですからね、敵が多かつたことは間違ひありません。 

 

天延二年(九七四年)に入ると、四月五日、「中納言從三位藤原朝成薨ず」といふ、見なれない聞き慣れない人物の死亡記事が出てきましたが、これが、槇野廣造さんの 『平安朝日記』 によると、面白い人物で、ついついここで道草を食つてしまひました。 

この藤原朝成なる人、「あさひら」とも「ともひら」とも呼ぶのださうですが、例の一條攝政の藤原伊尹(これまさ)さんと役職を競ひあつて、伊尹さんに裏切られたといふかだまされて奪はれてしまつたことを根に持つて、死んだ後には惡靈となつて祟つたといふのであります。 

その詳細が、『寶物集』 と、『今昔物語集』 と、『續古事談』 と、『十訓抄』 と、『大鏡』 に記されてゐると言ふので、すべてに目を通してみました。それぞれ視點が異なつてゐて、これが面白い。ただ、すべて複製でといふわけにはいきませんでしたが、『大鏡』 には、新典社から、「影印校註古典叢書」といふシリーズ本がでてゐて、これは、くづし字本文と翻刻文と註解が載せられてゐるのでたいへん重寶してゐます。 

 

で、もう一個所、同二年十一月の記事、「今日、軒廊(こんろう)で御卜あり」といふ文字が目に飛び込んできました。卜(うらなひ)とは、龜の甲で吉凶を占ふことでありまして、京都御所を訪ねたときにぼく自身の目で確認してきた所だつたのであります。もちろん、現在の御所は、舊平安内裏とは別の場所ですが、紫宸殿の東廊下にあるといふことは、御所内の位置的場所的には同じ所といつていいのでせう(『歴史紀行七』參照)。 

 

今日の寫眞・・今日は、東京新聞のこの切り抜きしかありません!