三月卅日(木)丙辰(舊三月三日 晴

 

今日は、《史策會》のかたがた六名と、野川下りの二回目、といふか野川の源流から多摩川合流地點までの後半を、京王線國領驛から田園都市線二子玉川驛まで歩きました。十時三十分集合出發です。 

晴れてはゐましたが、うつすら花曇りの天氣で、ときどき吹き渡る風が心地よいほどに、汗ばむやうな氣温でした。 

けれでも、昨年は櫻の花が見ごろをむかへてゐて、歩いてゐても氣持ちよかつたのですが、今回は櫻の花がまだ開いてゐないところがほとんどで、ちよいと殘念でした。 

川邊には、上流部と同じく動植物が多く、植物では、イヌノフグリやホトケノザ、ノビル、ニハゼキシヤウなど春の野草が繁茂し、水中には豐滿な鯉しか見られませんでしたが、龜もたむろしてゐました。しかし、今日は蛇はゐませんでしたね。 

また、シロサギや、カワウ、カモに、さう、カワセミも見ることができました。 

 

小田急線をくぐつたところで、次大夫堀公園に入りました。そこには民家園があり、園内のベンチで晝食のお辨當をいただいたのですが、そこの四棟、みな藁葺き屋根の古民家で、動態保存されてゐるのには感心しました。市の職員なのでせうか、ボランティアなのでせうか、毎日圍炉裏に火をくべてゐたりしてをられるやうなのです。 

さらに、「鍛冶展示小屋」では、數人のかたが實際にふいごを動かして作業をしてゐましたし、傍らの流しでは、ご婦人がダイヤモンド砥石を前にして小刀を一心に研いでをられました。ふと、「工房生活」をすすめてをられた秋岡芳夫さんのことが思ひ浮かばれました(秋岡芳夫著『工房生活のすすめ』みずうみ書房)。 

 

ゆるやかにくねりながら、野川はほぼ東南東方向に流れ、ついに多摩川と合流いたしました。そこの、いはば三角州のやうなこんもりとした丘は兵庫島といふ名なのですが、看板によると、南北朝時代の武將の名前がつけられたとのことです。 

さて、ここまで、約一七〇〇〇歩。前回よりも短い行程でしたが、ぼくにはこれが限度かなと思はれる距離でした(『歴史紀行 六十一 渡良瀨紀行』參照)。

 

二子玉の繁華街は、まだ三時過ぎですから、ぐるぐる探し回つて、どうにか見つけたお店で、みなさんと恆例の會食を樂しくやりました。もちろん、今回お休みの大塚さんには會食中の寫眞付メールをさしあげました。歸宅すると、萬歩計はその名の如く、今日一日で、二〇八九〇歩でした。 

今回の案内は、野川下り前半と同じく、甲斐さんでした。ありがたうございました。

 

ぼくの人生にとつて、この《史策會》ともう一つの《東山會》は、兩方とも旅友で、その半分以上は重複する方たちなのですが、氏素性の分からぬ、いや知る必要のない氣が置けない樂しい集ひです。それで、會食のとき、次回と次々回の計畫をたてまして、日にちまで決めることができました。鬼が笑つてゐるでせうか? 

 

今日の寫眞・・川に沿つて歩く。次大夫堀公園民家園にて。鍛冶公房。兵庫島と多摩川との合流部分にて記念寫眞。右から多摩川、左から野川。おしまひは會食で乾杯。