三月七日(火)癸巳(舊二月十日 曇のち小雨

 

妻の報告によりますと、今日動物病院につれていつて避妊手術をしたノラネコ四頭(五頭ではなく四頭の誤りでした)のすべてがメスで、そのうち三頭がすでに身籠つてゐたといふことでした。しかも、その一頭が母親で、二頭はその子どもだといふのですから、まあ、同じオスの子であるとすれば、もうオスもやり放題ですね。妻に言はせれば、父親がむすめにちよつかひを出すこともあるといふことです。それですもん、すごい繁殖力のはづです! 

いやいや、うらやましいわけではありません。さうではなく、それを阻止しなければ、不幸な子猫がふえるだけなのであります。ですから、金も力もありませんが、ぼくは日々、心から支援? 後援? いや、聲援を送つてゐるのであります。 

 

今日の讀書・・いつその事と思ひ、櫻井武次郎著『芭蕉自筆「奥の細道」の顛末』(PHP) の冒頭から讀みはじめてみました。 

著者が、芭蕉自筆「奥の細道」に出會つてから發表に至るまで、そしてその後の經緯を記録したものでありまして、いやはやスリリングな内容でありました。といつてもまだ途中ですが、實に 面白い。これはドキュメントですね。 

手もとにある、『芭蕉自筆 奥の細道』(岩波書店 一九九七年一月二十四日第一刷発行─今日の寫眞參照) は、自筆本「奥の細道」公表(一九九六年十一月二十五日)とほぼ同時期に出版された書でありまして、よくみたら、これは三年前に八〇〇圓で求めてゐた本でした。自筆とか初版とかあまり興味がないもので、ただくづし字の 『奥の細道』 が讀めればいいといつた安易な氣持ちだつたのです。が、これは實にたいした本だつたのであります。はい。 

「奥の細道」か「おくのほそ道」かを決める話、「できるだけ廉価にするよう」岩波に働きかけて、定價を三二〇〇圓に抑へた話等も、興味深く讀むことができました。 

 

でも、問題は、自筆本の眞贋問題です。芭蕉自筆「奥の細道」が發表されたあとで、やはり反對といふか、これを批判する研究者だ出てくるのです。實に やつかいです。 

で、本書を離れて、ぼくもちよいと調べてみました。 

 

まづ、芭蕉が『奥の細道』を書き、これを何度も自分で推敲しました。これは門人志太野坡(しだやば)が持つてゐたといはれてゐるので、所謂「野坡本」と呼ばれてきました。が、長い間行方不明で、半ば傳説的なものだつたのです。 

それが、一九九六年(平成八年)に神戸で見つかったのでした。櫻井武次郎さんが發見したのがこの本です。 

ところが、推敲好きの芭蕉によつて、自筆の「野坡本」に推敲が施され、この推敲本を旅の功労者である曾良に與へたので、「曾良本」と言はれてゐます(が、この「曾良本」は暫く日の目を見ず、昭和二十五年になつてようやく議論の俎上にのつたやうです)。 

しかし、この「曾良本」、曾良が淸書したと言はれてゐましたが、字體が違ふため、最近では、蕉門のひとり越後屋の手代池田利牛が書いた、とされてゐて、「曾良本(利牛筆)」と呼ばれてゐます。 

そして、この「曾良本(利牛筆)」をもとに、今日、『奥の細道』 の定本として、「斯界の研究のベース」とされる、蕉門の能書家・素龍による、「素龍本」(「柿衛本」「西村本」)が遺されてゐるのであります。

 

思ふに、この「曾良本」が日の目をみるまでは、「素龍本」が唯一手にとれる 『奥の細道』 だつたのでせうね。そこに、「曾良本」が出てきたので、一氣に芭蕉自筆書問題が浮上したのではないでせうか。 

ぼくも、ふだんは、複製された和綴じの「素龍淸書本」を讀んでゐます(昨日の寫眞の最後の一枚、四種類の複製の左上がそれです)。 

これを、嵐山光三郎センセイに言はせると・・・。

 

「『奥の細道』は私にとってまぎれもなく〈事件〉であり、事件現場に残されたのは、野坡本、曾良本、素龍本の文字である。芭蕉探偵団となった村松氏は、書き文字のひとつひとつを拾い出して読みくらべ、推理を重ねている。その作業を続けるうちに、曾良本がまぎれもなく芭蕉自筆の最終本であることが見えてきて、感動的である。」

 

と、まあ、これは、芭蕉自筆本(「野坡本」)を發見した櫻井武次郎さんの成果をふまへて書かれた、村松友次著『芭蕉翁正筆奥の細道』(笠間書院、一九九九年十一月)の讀後感として書いてゐる言葉です。「曾良本」が、實は、「芭蕉自筆の最終本」である、なんてまことに大かつ刺激的な推理でありますね。 

 

今日の寫眞・・『芭蕉自筆 奥の細道』(岩波書店)