二月四日(土)壬戌(舊正月八日・立春・上弦 晴

 

昨夜、『歴史紀行三 平城京・長岡京編 附録・塙保己一紀行』 のワード版を作成。慣れてきたので、手際がよくなりました。 

それで、今日は、目的を二つ抱いて出かけてきました。一つは、楓さんの作品を見に、上野の東京都美術館を訪ねてきました。「立春」だからでせうか、風がちよいとありましたが、日差しも強く、人も出て行樂シーズンを思はせる陽氣でした。

 

楓さんの作品は、「書海社展」に出てゐるのですが、いやあ、文字通り抜群に素らしい作品でした。でも、うまく表現できないので、川野さんも行かれて、その感想を書いてくださつたので、盗用ではなく、許しを得てどうどうと使はせていただきました。

 

「素楓さんの書海社展行ってきました。書を書く腕もさることながら、集中力に感嘆です。一般作品と素風さんら参事以上の作品の違いは迫力ですね。一般作品は一生懸命書いてるのはわかりますが、書の間というのですかね、ゆとりというのですかね矢張違いがあるというのがわかった気がします。習字は楽しいですね。ゆっくりがんばります。」

 

書道をされてゐる川野さんならではのコメントですね。襟を正された思ひです。 

書の題材は、水戸黄門さまが、朱舜水を偲んで書かれた漢詩ですが、この朱舜水さん、明の儒学者であり、江戸時代初期に來日してゐるんですね。さういへば、本郷のマップで、東京大學農學部の門を入つたところに、“朱舜水先生終焉之地”碑があるのを見たことがあります。 

その朱舜水さん、學問とともに、製陶技術を水戸藩に傳へ、それが笠間焼や益子焼のもとになつたといはれてゐます。 

 

*補注・・朱 舜水(しゅ しゅんすい、万暦281012日(16001117日) - 天和2417日(1682524日)) 明朝の遺臣、江戸前期の儒者。浙江省余姚の人。明末清初の変乱に際し、明朝の復興をはかり四度来日。国姓爺鄭成功と相談し援兵を求めたが成就しなかった。万治2年帰化。後、徳川光圀に招かれ賓師となり、水戸学派成立に大きな影響を与え、特に、光圀の修史事業(『大日本史』)の編纂を助けた。天和2(1682)歿、83才。墓所は水戸藩主累代の墓地である瑞龍山(茨城県常陸太田市)で、明朝様式の墓が建てられた。 

 

「明の故(もと)の徴君朱先生を祭るの文」(今日の寫眞參照)で共感した言葉は、「衡門常杜 箪瓢樂貧」 のところです。意味は、「「衡門(粗末な門)を常に杜(とざ)し、箪瓢(竹器に盛った飯と瓢箪に入れた飲み物)貧を楽しむ」。 

これなんか、良寛さんの詩を連想させる文句です。ひとつの定型なんでせうかね。もう三十年も前、淸水の「ぎゃらりい金木犀」の乃里子さんに書いていただいた良寛の詩の額を出してきて、まだちよいと季節的には早いのですが、あらためて見惚れてしまひました(今日の寫眞參照)。まあ、立春だからいいでせう。 

ちなみに、良寛さんの詩は、  

「林間に指を倒せば已に六十、一箪(タン)一瓢(ヘウ)餘年を送る。世上の富貴は羨む可しと雖、竹子(チクシ)の時節間(カン)を得ず」、です。「林間」を書斎に、「六十」を七十に、「竹子」を讀書に置き換へたら、まあ、ぼくの生活そのものであり、また理想でもあるのですが・・。えッ、「一箪一瓢」どころか、贅澤しすぎですか? 

 

その結論はさて措いて、つづいて、二つ目の目的、古本漫歩で、神保町の古書會館と、それから、はじめて、神奈川古書會館を訪ねてきました。神保町のはうはいいとして、神奈川のはうは、東急東横線の反町(たんまち)驛近くにあるのですが、その反町驛の變つたこと! 國道1號線を跨いだ高臺にあつた驛が、なんと地下にもぐつてしまつてゐたのであります。横濱を出てからもう二十年以上になりますから、浦島太郎状態と言はざるを得ませんが、それにしてもでしたね。 

さて、神奈川古書會館は、反町公園の西隣りにありまして、「反町二月新春古書会館展」と銘打つた古本市にしては、神田、高圓寺、五反田の各古書會館に次ぐ、といふか最も寒々とした古本市でした。収穫もほとんどなく、ただ一册、林美一さんの、『江戸仕掛本考』(有光書房) がめつけ物でした。

 

歸りは、スケートリンクのある公園を通りぬけ、京急線に乘るつもりで、東海道線をくぐつたら、慶運寺といふ、またの名を「浦島寺」といつて、かつてフランス領事館がおかれてゐたお寺に遭遇しました。たしかに、大きな龜が石碑を背負つてゐましたよ! 

 

今日の寫眞・・「書海社展」と楓さんの書。水戸黄門と朱舜水の畫像。良寛さんの漢詩の額。

それと、反町驛の高架線だつた跡。歩道になつてゐました。つづいて、神奈川古書會館と浦島寺。