正月卅日(月)丁巳(舊正月三日 晴

 

昨夜は、それまで少しづつ行つてきた、『歴史紀行』 のパワーポイント版からワード版への變換・編集作業が實りを迎へ、一册目の 『歴史紀行一 飛鳥・藤原京編』 が仕上がりました。 

『歴史紀行』 は、はじめ、册子にするために、ワーポイント版で作成してきました。が、途中から、メールに添付してお配りするやうになり、そのときになつて、パソコンにパワーポイント機能をお持ちでなく、とどいても開けない方が多いといふことに氣づきました。 

以来、まづはじめにワード版で作成し、それをメールに添付してお送りつづけてまゐりました。册子は、その後パワーポイントに變換してから作成してきました。 

ところが、『歴史紀行』 の一册目から九册目までは、パワーポイント版のままで、お送りできないでゐる方が何人もおられ、たまにお求めがあつた程度だつたのです。でも、やり殘しには違ひないので氣にはなつてゐたのです。それがやつと、一册目だけとはいへ、仕上がつたことは、實にうれしく思ひます。讀みたい方にはすぐにでもお送りできます。 

それで、今日は、『歴史紀行二 古代天皇陵編』 にとりくみはじめましたが、なれないこともあつて、だいぶ手こずつています。 

 

千葉市を再発見しよう!》(四)

 

さう、そもそもこの家が、〈愛新覚羅溥傑夫妻仮寓〉の家であつたことは、お隣の〈旧神谷伝兵衛稲毛別荘〉が千葉市の施設としてオープンのときに、溥傑さんが出席され、その際、ご自身がお話になるまで、ほとんど知られてはゐなかつたやうなんです。といふのも、もちろん個人的にご存じだつた方はをられたでせうが、それが一九九六年(平成八年)に賣りに出され、千葉市が購入した時に再確認されたのではないでせうか。聞けば、そのもとの持ち主とは、日本醫師會會長であつた武見太郎の弟さんご夫妻であつたさうです。 

それにしても、改築やら増築やら取り壊しなどされないでよく殘されたものだなあと、またまた感心してしまひました。まあ、別荘でしたからね、實用的に手直しされなかつたのが幸ひしたのだと思ひます。 

 

さて、いよいよだなと思ひきや、またまた後回しにされて、今度は淺間神社の參道を上りはじめました。それも、なんで海の方から坂を上るのかなと思ひましたら、あとで、〈稲毛浅間神社の由緒〉に、「文治三年(一一八七年)の社殿再建に際しては、富士山の形に盛土をし、参道も富士登山道にならい三方に設け、社殿は東京湾を隔てて富士山と向かい合って建立されました。」といふのを讀んで、納得しました。 

つまり、參道を下つた海のその延長線に富士山が見えるはづなんでせうね。でも今日は見えません。境内の日だまりで、お茶をいただいてから下山いたしました。

 

何度も通りかかった二の鳥居の延長線上の、國道を越えた向かうに、一の鳥居が見えました。あれですよ。六十年前にもあつて、朱色に新しく建てかえられたにせよ健在のやうですね! 

でも、國道を渡るのに一苦労でした。それも、信号で止まつた車の列を縫ひながら、たうとうやつてきました、六十年前の寫眞の場所です。盛土をしたためでせう、祠を載せた岩山がばかに低く、小さくなつてゐます。先端だけが土から顔を出してゐるといつた感じです。 

寫眞と同じところに座り、まだみな健在の、母に叔母、弟妹と従兄姉たちを思ひながら、ひとり愚か面をさらして寫眞におさまりました。 

 

*補注一・・稲毛浅間神社の由緒 

日本随一の霊峰・富士の山への浅間信仰 当社は富士山を神と仰ぎ奉る信仰にはじまります。 

大同3年(808)平城天皇の御代、現在の静岡県富士宮市大宮に鎮座する富士山本宮浅間大社の御分霊を奉斎したのが起源とされています。 

治承4年(1180)には源頼朝が東六郎胤頼を使者として御幣物を捧げて武運長久を祈願したのをはじめ、千葉常胤以来、代々の千葉氏の信仰が篤かったことが古記録等により窺い知れます。 

また、文治3年(1187)の社殿再建に際しては、富士山の形に盛土をし、参道も富士登山道にならい三方に設け、社殿は東京湾を隔てて富士山と向かい合って建立されました。 

 

今日の寫眞・・淺間神社〈二の鳥居〉脇にて。背後の高臺にある家が、訪ねた〈愛新覺羅溥傑假寓〉。つまり、淺間神社の參道の脇に位置してゐるわけですね。

淺間神社にて記念寫眞。 

それと、新舊同じ場所での寫眞。どこがどう變はつたか、想像を絶してゐます。