正月十九日(木)丙午(舊十二月廿二日望 晴

 

今日の讀書・・昨夜、といふより今朝方になつて、『雷電本紀』 を讀み終はることができました。どきどきはらはら、最後の頁をめくりおへたときには、思はず、フー、とため息がもれてしまひました。 

枕元に、ペースメーカーの動きを感知して、直接病院にその記録を送信してゐる「マイケアリンクモニタ(ペイシェントモニタ)」といふのを設置してあるのですが、時間が時間ですので、このどきどきが誤解されないといいのですが。

 

それで、讀後感ですが、それは一册には違ひないのですが、ぼくには一度に三册を讀んだ氣がしてなりません。「序」と、はじめの三章(「蒼龍篇」、「朱雀篇」、「白虎篇」)の雷電の傳記部分と、雷電引退後の事件が起きる「玄武篇」です。 

文藝評論家の北上次郎さんは、本書を評して次のやうに書いてゐます。

 

「『雷電本紀』 は、まぎれもなく歴史小説であり、そして相撲小説ではあるのだが、そう名付けた瞬間にこの長編の美点がことごとく抜け落ちてしまいそうなところがある。江戸中期の大相撲と、そこに彗星のように現れた怪物に託した民衆の心をディテール豊かに、そして鮮やかに描いた小説と言うしかない。小説のあらゆる分類を拒否して飯嶋和一の小説と言うしかないのである。『雷電本紀』 の中に、この作者のすべての美点があると言ってもいい。」

 

さらに、「『店がどうなろうと、またぼっつぁんとわっしとで一から始めりゃいい』 と麻吉が言うシーンで、医者の待合で千田川がボロきれに包まれた赤子を嫌な顔ひとつせずに抱きかかえるシーンで、そして、一文にもならない疫病退治のために飢えに苦しむ村に出かけた雷電が戻ってくるのを宿場女郎たちが寒空の下でずっと待つシーンで、何度も胸が痛くなってくるのも、その鮮やかさのためにほかならない。そういう映像的シーンの描写力に秀でていることは、飯嶋和一の美点の一つにすぎないが、これは特筆しておかなければならない。」

 

さう、もうこれ以上言ふことはありません。ぼくも、「帶」にならつて、「飯嶋和一を知らない人生なんて、もったいない!!」 と言ひたいです。 

つづいては、『神無き月十番目の夜』 で、讀みたいところですが、あたまを冷やし、どきどきはらはらを鎭めるために。一呼吸おきたいと思ひます。 

 

その代り今日は、『一條攝政御集』 を讀むことができて、それも全體の半分以上讀み進むことができました。だいぶスムーズになつてきました。 

途中からは、「大藏史生倉橋豊蔭なる『おきな』の、過去の色好みを回想的に歌物語化した」部分が終はり、以後は、そこからもれた歌を増補するといふかたちで、聞きかじつた話に歌を添へた斷片がまとめられてゐます。このやうなのを、「打聞集」とでもいふのでせうか。 

歌は、ほとんどが 『古今和歌集』 や 『後撰和歌集』 などに選ばれた伊尹の歌や、他の歌集の歌をふまえた歌ばかりです。 

 

今日の寫眞・・謙德公(藤原伊尹)畫像二種。