正月十五日(日)壬寅(舊十二月十八日 晴、冷える!

 

今日の讀書・・あまりにも寒いので、午前中はベッドのなかで讀書。と言ひたいところですが、眠くて眠くて、『一條攝政御集』 を繼讀とはいへ、數頁にも及びませんでした。 

そのてん、『雷電本紀』 は面白くてはじめから興奮氣味です。たしかに、六十數頁にわたる「序」を讀んだだけで、これで一册讀み終へたといふ氣持ちになるくらいの重厚さ。あらためて相撲とは何かを考へさせられました。 

ぼくはスポーツものは元來にがてで、飯嶋和一さんの處女作、『汝ふたたび故郷へ帰れず』 はボクシングでしたし、つづいての相撲です。ですから、自分では決して選ばないだらうと思ふのですが、なにせ服部さんのお薦めでしたから有無を言はずに讀みました。最初に讀んだ、『出星前夜』 は大佛次郎賞をとつたさうですが、ものすごく面白くて、ところどころ冒険小説を讀んでゐる氣にさへなりました。 

このやうに、學生時代から、薦められた本は好き嫌いを問はずに讀んで、それでぼくは讀書のレパートリーを廣げ、學んでくることができましたから、それから五十年たつたとはいへ、この方針を違へることはできません。

 

それで、ボクシングに引きつづき相撲ですが、これがまた面白い。いや、讀んでゐてなぜか涙がながれてしかたありません。庶民の哀歡を描いてはずばぬけてゐると思ひます。 

それまでは相撲にさほど關心がなかつた助五郎が、雷電を陰ながら應援するきつかけとなつた場面を見てみたいと思ひます。 

 

「見物した後までもずっと心に残るのはその群を抜いた体や技や力、それよりも、ああして何の妥協もなく、一心に全力をふり絞り相撲(すま)う、その怒りの激しさだった。まだ前髪を落としていない二十三、四だと伝えられる若い衆が、強大なものにたった一人で立ち向っているように見える。何も持たず、何もまとわず、裸同然で、おそらく相手の東方力士ではなく、その背後にあるもの。 

見物していた己が、かつては持っていたが、いつの間にか自ら失い、あきらめてしまった思いや怒り、やれ問屋組合だの町会だの、何もかも群れ集まり、少しも目立つまい、波風をたてまいとして、いつの間にか平然と日を暮らす己のブザマさをつきつけられた思いが助五郎をも打ちのめしていた。」 

 

このやうに、飯嶋さんの視點がいいですねえ。讀んでゐても、どこに立つて書いてゐるかがよく分かります。もちろん反權力であり、おごりたかぶつた者への言及はとてもきびしいのですが、決して自分を高みに置いてゐないし、例外ともしてゐない、だからこそ讀むぼくらをも巻き込んでいくのだらうと思ひます。 

 

さういへば、北國街道を旅したとき、バスの中で、岸本先生が、海野宿への途中だつたか、この右手に雷電の生家がありますと説明してくれたことを思ひ出しました。淺間山から流れ下つた溶岩のあとが、森となつて殘つてゐるあたりでした。 

 

*補注一・・「雷電爲衛門生家」 長野県東御市。生家とは呼ばれるが、実際には雷電が大関時代に建てた家で、屋内に稽古土俵、さらに稽古の様子を見学できるように二階座敷などがある。地元につたわる話では、恩人である上原源五右衛門に遠慮して、彼の邸宅よりひとまわりこぶりに建てたという。その後関家の納屋として使われていたが、昭和に入ってから復元され、1984年から一般公開が開始された。ここには雷電直筆とされる「諸国相撲控帳(雷電日記)」「萬御用覚帳」の原本の写しなども保存されている。 

ちなみに、雷電の通算成績(幕内成績)は、25410214541休 勝率.962 ださうで、これはいまだに破られてゐません。 

 

*補注二・・「諸国相撲控帳(雷電日記)」について、ネットで興味深いことが書かれてゐましたので、寫させていただきます。 

雷電は、通称・雷電日記と呼ばれる『諸国相撲控帳』なる記録を残しています。 

「八月五日、出立仕ろ候。出羽鶴ヶ岡へ参り候ところ・・・」・・・で始まる85日の日記には・・・「六合から本庄塩越へ向かって歩きましたが、六合のあたりから壁は壊れ、家はつぶれて、石の地蔵も壊れ、石塔も倒れており、さらに、塩越では、家々が皆ひしゃげていて、大きな杉の木は地下へもぐり、喜サ形(象潟)というところでは、引き潮の時でも、ひざのあたりまで水がありました」 といった風な内容の事を書いています。これは、巡業で秋田へ行った際に、奥羽地方を襲った大地震に遭遇した時の記述なのですが、日記にしては、エライ客観的で刻銘な描写・・・。

雷電は、この日記を20年間に渡って書き続け、しかも、この日記をもとに『萬御用覚帳(よろずごようおぼえ)』という公文書を作成し、逐一、松江藩に提出していたのです。それは、引退後の文政二年(1819年)の5月まで、キッチリと続けられています。 

この雷電の日記は、今でも、相撲だけではなく、江戸時代の風俗を知る事のできる貴重な史料とされているところからみても、日記・・・というよりは、現地ルポ・・・。そうなると、雷電は、巡業にいった先で、見た事、聞いた事を、現地特派員のような形で、いちいち松江藩に報告していたという事になります。 

勝手な想像ですが・・・ひょっとして、こっちが本職だったのでは?・・・ 

 

今日の寫眞・・妻がいただいてきた資料。猫の種類が分からないと言つたらくださつたといふ。それと、送られてきた、「慶文堂古書目録」。これを見れば、基本史料・資料がいくらか、その相場がわかる本です。他の古本屋さんも參考にしてゐるやうです。