十二月卅日(金)丙戌(舊十二月二日 晴

 

今日の讀書・・織田完之著 『平將門故蹟考』 を讀んで、いくつか疑問が解けました。ひとつは、十二月八日に讀み終へた、滝沢解著 『空也と将門』(春秋社) の中で疑問に思つた將門と空也との關係です。いや、むしろ、著者の滝沢さん、本書を讀んで題材にしたのではないかとぼくは勘繰りました。曰く。 

「京都の空也堂に傳ふる記録に、天慶三年空也上人北總遊化の時、將門亡ひ從類の捕虜となるもの千餘人重輕罪に處せられんとす。上人深く之を憫み、秀郷貞盛の兩將に見えて命乞をなし兩將も上人の言を容れて随喜せり。是に於て上人千人餘人を諭し弟子となし佛門に歸依せしむ。皆感涙を流し兜の鉢を叩きて稱名念佛せり。是鉢叩きの始なりと云ふ。」

 

それと、「八幡不知森」 について、「予按するに是平將門の父鎭守府將軍下總守從四位平良將の兆域(墓所)なるへし」と言つてゐます。さらに・・。 

「竹樹叢生繁茂せし兆域の中心に後人小石祠を安置するは蓋し平良將の祠堂ならん。物變り時移り行人の此を過ぎ訝り問ふ者あるも、里人は將門の父なれは其の實を告くるを憚り、何人か貴人の墳墓なるべきも其の姓名を知らすと答へ、知らす知らすと終に知らすの森となるなるべし。」と、かう明快に解答してくださいました。

 

また、最後に、坂東市岩井の現地を訪ねたぼくとしても寫しておかなければならないでせう。織田完之が將門の根拠地岩井に招かれて行つた講演會のことを述べてゐるのです。それはかうですが、ちよいと分かりやすくまとめてみました。

 

明治四十年四月三日午前十時、會場に着くと花火があがり、集まつた聴衆は數百人、殆ど猿島全郡の集會と思はれた。「即十時より講演す。歴史傳ふる所の荒唐たるを辯し、端缺將門記の信據とするに足る迄の事を述て十二時に至る」。さらに午後三時半まで續いた講演が終はると、「滿場喝采して斯かる長談に渉れるも聴衆更に倦怠の色なくして粛聴せり」。とまあ、歡迎の嵐であつたといふのです。 

地元の英雄が朝敵、逆賊とされてゐたこの時期に行はれた織田の講演は、猿島岩井の人々が新しい天皇制國家に感じてゐた負い目を拂拭するものであつたのでせう。 

 

*補足・・織田完之著『平將門故蹟考』は、将門関係の史跡や伝承を研究紹介した最初の刊行書である。この著作によって将門の名誉は回復され、今日の将門が有ると言っても過言では無いだろう。 

我が国は明治維新期に天皇中心の国家体制を建て、廢佛毀をし神国になったから朝廷に反逆した将門を排斥する傾向にあったのです。これに光を当てたのが幕末に三河の国にうまれた織田完之であった。 

完之の若い時は尊王攘夷に身を投じて、投獄などの憂き目に有ったらしいが、釈放されると内部省に勤務しながらも将門研究は継続していたらしい。やがては将門の復権を政府要人にも働きかけたり、地方の将門研究家にも連絡を取って、将門研究に実を上げていった。それらを纏め上げて世に問うたのが『平將門故蹟考』である。 

将門は朝廷に対する反逆者では無く、東国の武士団の発生としての評価を受けるのは、実に織田完之の努力の賜物であろう。 

1923年(大正12年)118日、東京で死去。東京都台東区谷中の天王寺に墓碑がある。また、岡崎市福岡町の高須神社にある石碑「鷹洲先生寿碑」の題字は渋沢栄一によるものである。 

 

將門紀行 現地探訪》(六)

 

「將門史跡めぐり」 は終はりました。が、それはあくまでも、坂東市のウオーキングマップ上の史跡めぐりで、地圖を見れば、さらにいくつかめぼしいところがあります。時間的にも余裕がありさうです。 

とくに延命院です。はじめ、延命寺と混同してゐたのですが、まつたく別のお寺で、はたしてどのやうに行つたらよいのか、そば屋で三人で話し合ひました。 

バスが近くを通つてゐるのなら、バスで行き、歸りはタクシー呼ぶ。或いは、タクシーで行つてしまつて、歸りはバスで。と考へたすゑ、後者を選びました。延命院からは歸りのバス停まで歩けさうですし、そのバス停から、東武鐡道野田線の愛宕驛までのバスが走つてゐたからです。 

 

 それでタクシーは、とさがしてゐると、なんのことはない、メインストリートに何軒もタクシー會社が軒を連ねてをりました。はじめの会社に入ると、ところが、出てきた男性が指をさし、次の会社のを利用せよ、と斷つたのであります。いや、なにか都合が惡かつたのでせう。まあ、そんなことはいいのですが、鐡道の通らない町ならではの譲り合ひ、と理解しておきました。 

はたして、十分足らずで、目ざす延命院に到着しました。が、なんだか遠回りさせられたやうな氣がしました。江川と飯沼川を越えたところで脇道に入り、それがくねくねと長かつたので、そんな氣になつたのでせうか。森の中の人氣のない寂しいお寺でした。 

將門の胴塚、ありました。お堂の裏手です。 

 

「将門の胴塚で知られる延命院は、新義真言宗に属し、神田山如意輪寺延命院といい、本尊は延命地蔵菩薩です。 

平将門の首は京都へ送られ、数々の伝説を残して、現在は東京の大手町の首塚にあるとされる。しかし将門の胴体は、戦没地からそれほど遠くない場所に埋められているとされる。それが延命院にある胴塚である。 

延命院の創建については不明な点もあるが、将門がこの地を支配した時期には伽藍が建てられたという。そしてそこに弟の将頼らが首なき胴体を運んできて埋めたという伝承になっている。 

延命院の山号は“神田山”であるが、それは将門の“身体(からだ)”を埋めた場所だから名が付いたという説がある。だが実際には、この付近一帯は相馬御厨として伊勢神宮へ寄進された荘園であることから“神田”とされたと思われる。また伊勢神宮ゆかりの土地であったために、墳墓は荒らされずに残されたとも言われる。 

現在、胴塚は古墳として文化財指定を受けており、また塚の上から生えた榧の木は天然記念物となっている。そして胴塚の西側には、昭和五十年に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられています。」 

 

でも、建物がなんだか違つてゐます。さしま郷土館ミューズで見た寫眞と違ふのです。そこでよく見たら、お堂の両脇にプレハブを増築といふのか、建て増ししてしまつたからでした。素朴な枯れた雰圍気がだいぶ壊れたな、と思はざるを得ませんでした。 

それにしてもなにやら得體の知れない雰圍気です。榧のくねりにくねつた太い幹。壓倒されるといふより、抱かれる感じがしました。遠い世界に引き込まれさうな氣分です。その根本で、三人そろつて記念寫眞を撮りました。 

 

 歸りの道は遠かつた。表通りを歩いて、馬洗橋にかかると、そこが、「菅生沼遊歩道」の入口で、きつといいところなんでせうが、覗く氣力もありません。やつと、辺田(へた)三叉路のバス停に着いて、これで今日の探訪はおしまひ、と思つたら、その目の前が西念寺でした。バスが來るまでまだ三〇分近くあつたので、休憩がてら境内に入つてみました。 

すると、ここも將門がらみのお寺であることがわかりました。「西念寺の泣き鐘」で有名なんださうです。 

 

「その昔、平将門の率いる兵卒集団が、辺田村の寺の境内にあった釣鐘を持ち出して陣鐘にしました。ある日、兵卒のひとりが、この鐘をつき鳴らすと、不思議なことにその鐘が、『辺田村恋し、辺田村恋し』と泣くように響きわたり、兵卒たちは、気味悪がって士気が上がらない。将門は腹を立てて、寺へ返した。と伝えられています。」  

要するに、兵士を萎えさせた鐘なんです。これつて、全世界の戦場へ持つていつて鳴らしたいですね。で、平和の鐘と改名してもいいと思ひます、けど。 

さあ、これでおしまひ。一時間に一本のバスがやつてきました。夕焼けがきれいで、途中、富士山のシルエットが見えました。先ほどの、「富士見の馬場」 もまんざら嘘ではなかつたやうです。

 

東武鐡道野田線の愛宕驛に着いたときにはあたりは暗くなつてゐましたが、まだ時間的には早く、それでは會食なしに解散しようといふことになりました。春日部驛で川野さんとお別れし、北千住驛で、そのまま田園都市線になる電車で大塚さんは歸つていきました。 

平將門。まだまだ謎がありさうですが、このへんで、ひと區切りしたいと思ひます。長かつたやうな、短かかつたやうなこのひと月。そして今日の一日です。タクシーを使つたにしても、歩數は一七四〇〇歩でした。 

 

今日の寫眞・・坂東市メインストリートのモニュメント(?)延命院、お堂の今昔と「將門の胴塚」にて。心靈寫眞ではありませんよ! 「菅生沼遊歩道」入口付近。西念寺の「泣き鐘」、一名「平和の鐘」。バスから見えた富士山のシルエット。