十二月廿九日(木)乙酉(舊十二月朔日・朔 晴

 

今朝は寢坊してしまひました。夕べは、歸宅後早く横になつたので、約十二時間寢たことになります。でも寢起きはすつきり。疲れはぬけたやうで、體重は六〇・八キロ。血壓は一〇四~七〇、酸素も九八ですから、ベストコンデションンと言つていいでせう。 

さて、今年殘された課題はあと二つ。『平將門故蹟考』 を讀むことと、將門紀行 現地探訪》 を書いてしまふことです。大晦日までには〆てしまひたいですね。 

 

將門紀行 現地探訪》(五)

 

「將門史跡めぐり」 によれば、國王神社のあと、島廣山、延命寺、石井の井戸、一言神社、九重の櫻、そして富士見の馬場とつづきます。晝食がひかへてゐますからちよいと急ぎました。が、みなほんの數分内に點在してゐるので、かろやかな氣分で田舎の風景を樂しみながら歩くことができました。

 

「島廣山」は、縣道20號線を渡つて二、三分の、家々に挾まれた一畫にありました。 

「承平5年(935年)、將門がここに石井の所を築き、軍事上の拠点としたところである。名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わっていたが、天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われた。この周辺には重臣達の居館、郎党の住居が並び、軍勢が集まったときの宿舎や食料庫などがあったらしい。今は農家の間に小さく石碑が建つばかりである。」 

たしかにね、そんな面影はまつたくありません。ひなびた田舎の集落の片隅といつた感じです。 

 

つづいては「延命寺」です。ゆるやかな坂道をくだつていくと、突然に集落が途切れ、田園が廣がりました。今は冬枯れですが、稻田なのでせう、はるかかなたまでつづいてゐます。そんな中に、延命寺はありました。それで、「島藥師」と言はれるのでせうか。 

説明によれば、「延命寺は将門の石井営所の鬼門除けとして建立された。天慶3年、秀郷、貞盛によって石井営所が焼かれた時、将門の持仏『薬師如来像』を移し隠され、世の静まるのを待って現在の低湿地に祀られた。何回か火災にあったので、現在は山門だけが昔の面影を残す。茨城観光100選の一つ」 とあります。たしかに、山門がいいですね。 

 

次は、「石井の井戸」。山門からも望める道路際、田に圍まれた一畫にありました。 

「将門が王城地を求めてこの地を見回っているうちに喉が渇いて水が欲しくなった。その時、どこからか老翁が現われ、大きな石の傍らに立っていた。翁はその大石を軽々と持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出し、将門と従兵たちは喉を潤すことができた」。 

その井戸が 昭和初期まであつたといふのですが、ほんとうでせうか。でもいい眺めのところです。先ほどの山門も見えます。 

 

「一言神社」は、井戸の話のつづきです。「将門は不思議に思い、翁を召して『あなたはどのようなおかたなのでしょうか』と尋ねると、翁はかしこまって一首の歌を詠んだ。 〈 久方の光の末の景うつる岩井を守る翁なりけり 〉 と唱じると姿を消してしまった。将門はこの翁を祀るとともに、この大地に城郭を造ることに決めたのである」 と。 

將門の守護神で水を司る一言明神を祀つた神社といふことのやうです。ぼくは、參道入口の欅の大木に神々しさを感じてしまひましたけどね。 

 

「九重の櫻」は將門とは關係がうすいので省きまして、富士見の馬場に急ぎました。縣道20號線沿ひを、走りすぎる自動車に煽られながら、歩いてゐると、あれ、交通事故ですね。おばさんが自轉車と一緒に倒れてゐます。ぶつけたのかぶつけられたのか、自動車も停まつてゐて、救急車を待つてゐるところのやうでした。手を貸してゐる人が何人もゐましたので、野次馬になるのはやめて先を急ぎました。 

ちよいと迷ひましたが、こんなところにといふ場所に、「富士見の馬場」はありました。 

「将門が、馬の調練をし、また軍馬、伝馬の市を開いたと言われている場所。富士の雄姿が眺められたのでこの名が付いた。近くに延喜式の長洲馬牧があって伊勢神宮に祭馬、祓馬を納めていた。また、その頃豪族達が私牧を各地に持っていて、将門が石井営所に入ると、これら官牧、私牧を支配して駿馬を集め、この馬場で調練のほか馬市を開いたといわれている。」 

説明板にはこのやうに記されてゐましたが、そんな面影は感じられません。風がなくてけつこう暖かく、もう休みたくなつて歩きはじめたら、その角に、食べごろのそば屋さんがあつたので入りました。(つづく)  

 

今日の寫眞・・島廣山。延命寺山門。石井の井戸。一言神社は鳥居と拝殿。富士見の馬場。