十二月十五日(木)辛未(舊十一月十七日 晴

 

今日の讀書・・『將門記』 の原文と、村上春樹著 『物語の舞台を歩く 将門記』 (山川出版)とを交互に讀みながら、地圖で、將門の合戰地を確認していきました。 

『將門記』 の原文といひましても、林陸朗校註『新撰日本古典文庫・將門記』(現代思潮社)の訓讀文ですから、難しくはありません。戰ひの樣子やその場所などは、やはり參考書だけにたよるのではなく、原文に即したいですね。 

さて、原文と參考書と詳細な地圖によつて、將門の戰ひの全貌が見えてきました。覺えのために、戰ひの順序にしたがつて箇条書きといふか、年代順に書き出してみました。まだ途中ですから、今日は、その第一回です。 

 

《將門記の旅》(一)

 

(一)《野本合戰》 承平五年(九三五年)二月  常陸國の前大掾(さきのだいじょう)源護(みなもとのまもる)の三人の息子らに待ち伏せされた將門が應戰し、その三人を返り討ちにし、その際、源護側に加勢した、將門の伯父國香(源護の娘を妻としてゐた)をも死なせてしまつた戰ひです。 

*戰場となつた「野本」は、關東鐡道常總線騰波ノ江(とばのえ)驛東方、筑波山との中間地點で、中(なか)上野周邊の地域。 

これにより、『將門記』 の幕が切つて落とされるわけですが、將門は、をぢ(伯父・叔父)たちと從兄を敵にまはし、同族同士の戰ひがはじまことになるのであります。が、その根底には、獨立國まがひの地方豪族として、荘園の新設や縄張り爭ひ、土地(領地)の奪ひ合ひがあつたといはれてをります。ただ、源護の三人の息子らが何故ここで待ち伏せしたかはよくわかつてはゐないやうです。女の取り合ひのこじれかも知れません!

 

登場者の關係を述べておきます。將門がまだ幼い時に亡くなつた父親良將(又は良持)には國香と良兼といふ二人の兄と弟の良正がをります。この三人の、將門のをぢたちはみな、源護の娘を妻としてをりました。また將門自身は、伯父良兼の娘をめとつてをりました。それと、國香には息子、貞盛がをります。複雑のやうですが、系圖にすれば簡單です。

 

ところで、この戰ひにより、父國香を失つて驚いたのが、將門の宿敵ともなる從兄の平貞盛でした。その春、勤めてゐた朝廷に休暇届を出して急遽帰郷し、一年間喪に服しました。ですから、次の(二)の戰ひには參加してゐません。 

 

(二)《川曲村の戰ひ》 承平五年(九三五年)十月 《野本合戰》の結果を根に持つたのが、兄國香と自身の妻の兄弟たちを殺された良正でした。彼は、甥である將門よりも外戚(妻の父)の源護との關係を重んじ、その復讐を企てたのでありました。 

しかし、「將門は運ありて既に勝ち、良正は運なくして遂に負くるなり。射取る者六十人、逃げ隠るる者その數を知らず」、と 『將門記』 には合戰の樣子は省かれ、結果だけが描かれてゐます。 

*その「川曲(かはわ)村」の場所は、現茨城県結城郡八千代町川西地区で、八千代町新井にある川西地区運動廣場あたりのやうです。 

 

*この時點では、貞盛は、將門のはうに理があると信じ、誼を交はしてゐます。 

*さて、ここで良正は、「大兄の介」、良兼に助力を求め、良兼はその求めに應じて、現千葉縣山武郡横芝光町の所(陣屋)から出陣し、筑波山のふもとにある、水守の良正の營所までやつてきます。ちなみに、つくば市水守に「良正の營所跡」があるさうです。 

 

(三)《下野國府付近の戰ひ》 承平六年(九三六年)十月とあるが、七月が正しいやうで、その二十六日 この戰ひに先立つて、貞盛はすでに喪が明けてをり、良正に説得され、將門との約束を反古にして、叔父の良兼、良正とともに、「下毛野國を指して、一列に發向」します。「当然のことながら、これ以降、將門は貞盛を許すことは」ありませんでした。 

*「下野國府」は、現栃木縣栃木市田村町宮ノ邊にあり、下野國府跡展示資料館がつくられてゐるやうです。さう、例の「室の八島」に近いところですね。

 

ただ、なぜ下野國府付近なのかが分かりませんが、「良兼率いる大軍が、・・こうした経路をとったのは、大軍がいくつかの川や沼を渡らなくて済み」、戰ふのに有利だつたからだといひます。 

良兼勢が、「いまだ合戦による消耗がなく、人馬は肥えて武器も整っている。それに対して將門の軍は、数度の戦いにより武具は乏しく、兵の数も減っていた」にもかかはらず、先手必勝とでも言いませうか、わづかな「兵を寄せて、合戰せしめ、射取る人馬八十餘人」をもつて敵の軍勢を追ひ散らしてしまひました。 

また、ここで、將門は、叔父の良正をあへて逃がしてゐるのです。「若し終に殺害いたさば若しくは物のそしり遠近にあらんか」と、「便ち國廳西方の陣を開き、彼の介(良兼)を出さしむる」のであります。人がいい將門の一面が覗かれる場面でせうか。 

といふことで、またまた勝利してしまふのであります。連戰連勝です。なにか、將門のなかで目ざめたものがあつたのか、いや、吹つ切れたものがあつたのではないでせうか。(以下、つづく) 

 

〈將門紀行 その前哨戰(四)〉 

 

大佐倉驛發車の電車は、二〇分おき、トイレに入り、ペプシコーラを飲んでゐるうちにやつてきました。特急上野行です。成田空港驛發ですから、案の定、大きな荷物をかかえた若者たちで、けつこう込み合つてゐました。それでも座ることができ、本を讀みだしたら眠くなり、あつといふまに八幡驛に到着しました。 

途中の船橋には、「將門腰掛松」といふのがあつて、できれば訪ねたいと思つたのですが、今回はパスして、おなじみの八幡驛に降り立ちました。山本書店さんの前を、心を鬼にして素通りし、まづは、市川市役所をめざしました。 

千葉街道に出て、東に向かつて歩くと、左手に大きな石の鳥居がそびえてゐました。が、それは葛飾八幡宮の入口でして、目ざす「八幡の藪知らず」は、千葉街道をはさんだ右側の鬱蒼とした竹藪がさうであると思はれました。 

それは、市川市役所とは千葉街道をへだてた斜向かひに位置してをり、何とも言へないやうな雰圍氣をかもしだしてゐました。だつて、かたやお役所。人の出入りは多く、國道は信號なくして決して渡ることのできない交通量です。そんな喧騒のただなかに、ひっそりと息を凝らしてゐるかのやうな薄暗い場所なんです。不気味といへばこれ以上不氣味なところもないでせう。 

ここが、ほんとうに將門の父、良將の終焉の地なのでせうか。街道に面した小さな社殿には、「八幡不知森(やわたしらずのもり)」と記されてをります。一應、「説明版」に目を通しておきませう。 

 

不知八幡森(しらずやわたのもり)  (通称八幡の藪知らず) 

江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では 「藪知らず」 のことを載せています。そして 「この藪あまり大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かず。」 とか、「藪の間口漸く十間(約一八メートル)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹藪にして、細竹・漆の木・松・杉・柏・栗の樹などさまざまの雑木生じ・・・・・」 などと書かれたりしていますが、一様にこの藪知らずには入ってはならない所、一度入ったら出てこれない所、入ったら必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」 と言われて全国的に知られていました。 

入ってはいけない理由については、・最初に八幡宮を勧請した旧地である。・日本武尊が陣所とされた跡である。・貴人の古墳の跡である。・平将門平定の折、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。・平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。と、いろいろ言われてきました。 

中でも万治年間(一六五八~六一)水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。 

「藪知らず」 に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されきたものではないでしょうか。 

またその理由のひとつとして 「藪知らず」 が、「放生池」 の跡地であったからではないかとも考えられます。 

古代から八幡宮の行事に 「放生会(ほうじょうえ)」 があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいるということからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。 

市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には 「入ってはならぬ」 ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。 

「不知八幡森」 の碑は安政四年(一八五七)春、江戸の伊勢谷宇兵衛が建てたものです。            平成16年3月 市川市教育委員会 

 

あれまあ、長々と記されたわりには、「良將の終焉の地」なんて、出てきませんでしたね。まあ、いいか。(つづく) 

 

その他、今日、十三日にネットで注文した、『紀元二千六百年記念 房総叢書』 全十一冊揃 が届きました。第八巻には、水戸黄門さまの旅日記 『甲庚紀行』 がおさめられてゐます。古い本で、バカ安でした! 

 

今日のメール・・中仙道をともに歩いた《東山會》の渡辺さんから、山寺さんが、實は亡くなつてはゐないやうだといふ連絡をうけました。ええつと、思ひましたが、それはよかつたと心からほつとしました。だいぶ騒いで、みなさんに顰蹙を買つてしまつたので、喜びを胸にしまつて、靜かにしてゐたいと思ひます。 

 

今日の寫眞・・「八幡の藪知らず」五枚。 

ベランダに返つてきた寅。四月八日から卅日まで我が家の臺所に隔離(保護?)されてゐたトラウマは解消されたのでせうか。それなのに、入りたい素振りをしてゐます。水をあげたらながながと飲んでゐました。