十二月十二日(月)戊辰(舊十一月十四日 晴

 

〈將門紀行 その前哨戰(一)〉 

 

昨夜、赤城宗徳著、『新編將門地誌一』 を讀み上げてしまひました。著者の考へがよくわかる内容であるとともに、ガイドブックのやうな解説もあつたものですから、早速といふか、取るものもとりあへず、現地を訪ねることにしました。それがすべて我が京成電鐡沿線といふのですから、實に手ごろな本番前の前哨戰といふか、ウオーミングアップといふことで、行つてまゐりました。 

 

目的地は佐倉驛の次の大佐倉(おおさくら)驛です。ところが、樂に行けるはづが、けつこうてまどつてしまひました。堀切菖蒲園驛から高砂驛まで行き、そこで後續の「特急成田空港行」に乘ればよかつたものを、すぐに來た「快速佐倉行」に乘つてしまつたのが運の盡き。あとで確認したら、特急は佐倉驛からは各驛停車で、大佐倉驛にも停まるのでした。 

それなのに、快速ですから、津田沼驛からが各驛停車。それで、この夏の手術後は藥のせいでトイレが近く、たまたま、実籾(みもみ)驛で降りたのです。この時だつて、次の八千代台驛か、勝田台驛で降りてゐれば、特急に乘り換へられたのに、実籾驛は通過待ち。結局、各驛停車の臼井行に乘つたのです。が、臼井驛でも特急はやり過ごし、次の快速佐倉行に乘り換へ、佐倉驛でやつと特急に、といつてもあとひと驛でしたけれど・・。いつたい、何回乘りかへたといふのでせうか! 

そんなこんなで、ちよいと時間の食つた電車の旅も終はり、大佐倉驛に降り立ちました。といつても、谷間に位置する長いホームに殘されたのはぼくひとり。しかも無人驛。パスモを使つて改札口を出ました。念のため、歸りの時刻を調べたら、晝間は二〇分おきに特急のみが停車することが分かりました。一時間に三本といふことですね。 

 

さて、書いてきた手製の地圖を出して、歩きはじめました。あたりは雑木林に取り圍まれ、しかも起伏にとんだ地形なので、道が曲がりくねつてゐます。目的地まではいささか坂道で、竹藪が繁つてゐて薄暗く、だいぶ息が切れましたが、しやがみ込む前に、明るい臺地の上に出ることができました。 

そこは住宅地で、何軒も、それも古民家などではなくて、分譲住宅だつた家が古びて崩れかけてゐるやうな印象を受けました。でも高臺で、雑木林に圍まれ、付近には畑や果樹園が見られます。なんだか、タイムスリップしたといふか、信州の片田舎にやつて來たやうな氣分になりました。 

このあたりは佐倉市將門町のはづですから、この台地が「將門山」と言ふのかも知れません。 

ものの本には、「将門がこの地に生まれたとも館(城)を構えたともいわれています。一説には、平将平の執事・佐倉太郎の本拠で、将門の支城になったのではないかともいわれ、もともとこのあたりは、北の大佐倉・南の本佐倉とともに将門の父・良将の本拠地でした。この将門山から、この地の「将門町」の名がついたといいます。」 

 

目ざす、第一の場所、「將門口ノ宮神社」はすぐに分かりました。シイやスギなどの大樹にかこまれた小さな神社でした。(つづく)

 

今日の寫眞・・臼井驛にて快速佐倉行に乘る。一人殘された大佐倉驛ホーム。看板の周邊地圖。將門口ノ宮神社。