十二月九日(金)乙丑(舊十一月十一日 晴

 

今日の讀書・・昨日讀み終はつた 『空也と将門』 の中の、「平将門滅亡の後其群臣儘く罪科に処せられんとす。空也上人之を憐み・・・」の件(くだり)ですが、實は、どの書からの引用であるのかはつきりいたしません。これはぜひともたしかめておきたい内容です。 

といふのも、他の頁で、「じっさい將門亡き後、諸国へ分散した落人たちは筆舌につくしがたい迫害に晒された。その痕跡が各地の記録にのこる」、とおつしやつてをられるからです。 

 それと、次の文章。「空也の念仏がなければ天皇母子は救われず、将門が死ななければ一族郎党三万七千人の釈放もない。すでに処刑が決まっていた残党に恩赦がなければ、鉢敲きも、その後につづく念仏衆も空也僧もなく、さらにいえば民衆の浄土教はもっとずっと後世まで広まることはなかったろう。空也はまちがいなく歴史を作ったのだ。」 

 これは、いはば、著者のまとめ、結論と言つてもよい言葉です。できれば、ぼくなりにその確をつかみたいですね。 

 

ところで、しだいに現地探訪の日が迫つて來ましたので、さううかうかと寄り道ばかりしてゐられません。まあ、すでにぼくのなかでは「紀行」ははじまつてゐるやうなものですが・・。そこで、昨夜から、將門關係の書物では必ず參考文獻にあげられる、明治四十年に出版された、織田完之著『平將門故蹟考』 を讀み始めました。

 

それで、「總論」と三つの「序」を讀みましたけれど、その文書の難解なこと、漢文を讀んでゐるやうでした。いや、実際、「序」の三篇みな漢文なのでした。なにしろ難しい漢字が使はれてゐて、電子辭書の 〈漢字源〉 を引きつぱなしでした。 

例へば、「覬覦」。「きゆ」と讀みます。意味は、「身分不相應なことを望むこと」です。「狡譎」は「かうけつ」と讀んで、「ずるがしこい」の意。その他、「讒謗」、「駭く」、「泄す」、「冤枉」、「羅織」、「寳祚」、「謾」、「炳」、「咸」、「瘞」、「杳」、「操觚」、そして、「洵」等々。 

ぺらぺら見たところでは、本文も同じやうな調子です。まあ、册子ですので、はやく讀み上げてしまひませう。 

 

今日は眠かつた。まあ、明治の人の文章つてこんなもんなんでせうか。露伴や漱石や鴎外のやうな、また樋口一葉だつて、小説だからでせうが、どうにかすらすら讀めますが、この學術的文章(?)にはまゐりました。論文調の文章にしたつて、中江兆民だとか、徳富蘇峰だとか、西田幾太郎だとか、孝徳秋水だつて、たまたま岩波文庫で確認しただけですけれど、先へ先へと讀ませてくれるものが感じられるのですが、これにはありません。今のところですけれど・・・。  

「神社秘録」にどうのかうの、「御城日記第三に曰く・・・」、「増補江戸咄に伝く・・・」、というふうに、事柄の羅列であつて、まあ、個々の事實を知らされてソンはしませんけれど、將門の問題とどう關りがあるのかまだ見えてきません。 

でも、著者の名譽のために、本文冒頭の文章を引用しておきたいと思ひます。(・・・)内はぼくの補足です。 

 

「平將門の (冢・つかの意か? はおほう、かぶせるの意) は明治の昭代(太平の世)に顯れたり誰か料らんや東京の中央皇居の東北皇宮の付屬地なる大手町大藏省の南庭にあらんとは夫天慶三年より明治三十九年に至る九百六十七年の間無實の冤枉(ゑんわう・冤罪)を蒙り滿天下の人は皆將門を目して天位を覬覦せる大叛臣と思ひ居れり之が爲めに其のも隱晦して假山となり更に人の顧みさるに至れり而して天運循環往いて還らさるはなし明治三十八年四月四日官報・・・に依り名古屋大須寳生院眞福寺の將門記を以て國寳の資格あるものと定むと内務大臣より公達せらる是より先き予は將門記傳を著し茲に國寳の字を冠して之を印行し事實の眞相を世上に明示し歴史の謬妄を訂正し千古の冤罪を洗雪せん事を謀れり。」 

 

さう、このやうな文章であれば、いくら句讀點がなくても、濁點もなくてまるで平安・鎌倉の古典文と同じですが、よく分かりますし、著者の勢いが感じられますね。 

 

ドイツはベルリン在住の三輪君から久しぶりのメールが届きました。お互ひに心臓の欠陥をかかえてゐるので、ちよいと心配してゐた矢先でした。娘のシモーネと我妻の誕生日が同じ日で、そのお祝ひをかねた便りでした。よかつたよかつた! 

なにせ、「ひげ日記」の數少ない愛讀者の一人ですから、まだまだ失ひたくはありません。  

 

今日の寫眞・・織田完之著『平將門故蹟考』(碑文協會・その再刊)。それと、ベランダに返つてきた寅ちやん。逃亡してから何か月ぶりでせうか。妻と顔を見合はせてほつとしてゐます。茶色のノラも一緒です。妻があげる食事がいいものだから、みなまるまるとしてゐます。