十二月七日(水)癸亥(舊十一月九日・大雪・上弦 曇りのち晴

 

今日の讀書・・昨日は、早く寢てしまつたので書けませんでしたが、家を出るときに、『御伽草子』(有朋堂文庫)を持つて出ました。その中の、「俵藤太物語」を讀むためでした。後半は、「將門を打ち亡ぼ」す物語でありますので、再讀するためでした。 

秀郷ははじめ、將門に「同心し、日本國を半分づつ管領せばやと思ひて」、會ひにいきましたところ、その振る舞ひがあまりにも粗野なので、これは「日本の主(あるじ)」となる器ではないと見切りをつけ、逆に、都に上り、「相馬の小次郎將門が叛逆を企て」ゐます。「速かに追討使を下さるべし」と注進し、「軍功は功によるべし」との宣旨を承り、藤太は、「勇をなして退出す」。 

さて、將門の屋敷に紛れ込んだ藤太は、將門を「怪しく思うて物の隙間より窺ひ見れば、同じ男體の上臈束帯にて七人ひとしく座し給ふ」。そこで、將門に親しい小宰相に問へば、「御形は一人なれども、御影の六體まします故に、人目には七人に見え給ふなり」とのこたへ。その見分け方を聞き出して亡ぼしたといふ物語でありました。 

 

そこで、もう一つ。昨日、神保町の小宮山書店に立ち寄つたときのことです。鈴木理生著『江戸の町は骨だらけ』 といふ不思議な本が目にとまつたのです。手に取つて開いてびつくり。前半の第1部が「東京の骨」、第2部の後半が「東京の怨霊」となつてゐて、その第2部には、將門のことが出てゐたのであります。これをこそ出會ひと言ふのでありませう。 

ぐいぐい引かれながら、今日一日かかつて、その第2部を讀んでしまひました。

 

怨靈といへば京の都です。その怨靈をめる御靈神社なくして京都は語れません。が、それが東京にもあるといふのです。 

「東京の本郷台地の東端部から下町低地を見下ろす位置に、ズラリと江戸独自の怨靈と、京都伝来の怨靈を祭神とする神社が並ぶ。南から神田神社、ヤマトタケルを祀る妻恋神社、そして菅原道眞を祀る湯島神社、俗称は湯島天神。その表参道の鳥居は 『東京都指定有形文化財』 の青銅製の明神鳥居という形式という具合である。」 

神田神社は、もちろん將門を祀る神社ですけれど、妻戀神社は、たしか神田神社から湯島天神に向かふ途中にあつたはづです。それにしても、ここで何故ヤマトタケルなのですかね(補注參照)。 

 

それと、京都の場合、「政権内部の権力闘争の敗者を怨靈とし、それを神として祀る」といふものでした。ところが、「将門の場合は、京都政権の外部からその存在を脅かした挙句、その志を遂げずに殺されたために怨霊となった点に大特徴がある」、と著者は語ります。 

そもそも、カミ(神)には二つの條件があると考へられてゐて、一つには 「ある人」 が生前に偉大な能力を持つてゐたといふこと。もう一つは 「その人」 が、流罪になつたり死刑になつたりしてこの世に怨念を殘して死んだものである。とすれば、將門はどちらでせう。前者とも言へるし、後者でもあり得ますね。 

「平将門の怨霊は江戸・東国の人々の独立運動の挫折による、いわば東国の人々のオリジナルな怨霊なのである」さうです。はい。

 

だいぶまとまりに缺けましたが、理解できなかつたところもありました。謎は謎として心にとめておきたいと思ひます。 

その他、神佛混淆のことや、神社といふ名稱は、明治になつてからのもので、それまでは「やしろ」と呼ばれてゐたことなども學びました。例へば、氷川神社と書いて、「ひかわみやうじんのやしろ」、「稲荷社」と書いて。「いなりのやしろ」と讀んださうです。

 

補注・・「妻恋神社」 この神社の創建年代等については不詳であるが、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のおり、三浦半島から房総へ渡るとき大暴風雨に会い、妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救った。 

その後、東征を続ける尊が湯島の地に滞在したので、郷民は尊の妃を慕われる心をあわれんで尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝えられる。 

江戸時代には、妻恋稲荷の名で有名となり、王子稲荷と並んで参詣者を集めた。 

 

今日の寫眞(前頁)・・久しぶりの新聞切り抜き。『寶物集』と鈴木理生著『江戸の町は骨だらけ』(ちくま学芸文庫)。今日のモモタ君。おまけは、昨夕のひれかつ定食。