十二月六日(火)壬戌(舊十一月八日 晴、風が強い

 

今日の讀書・・今日は、出歩いてちよいと疲れました。晴れてゐても風が強くて身にしみたといふこともありますが、無駄足を踏んだことがこたへました。 

上野のヨドバシカメラから、カメラの修理ができたといふ連絡があつたので、開店早々の時間に訪ねて受け取つてきたはいいのですが、帰宅してSDカードを入れて撮つたところ、再生しても依然と映らなかつたのです。別のSDカードで撮つても同じですから、やはりカメラが修理されてゐなかつたといふことなのでせう。 

それで、晝食後、佐久の家に歸る弟と一緒に家を出て、再び訪ねて修理に出しました。幸ひ延長保證に入つてゐたので、修理費は出さなくて濟みさうです。

 

これで歸宅したのでは男がすたりますから、また神保町へ行こうかと思つたとたん、さうだ、築土神社を訪ねてみようといふ氣になつたのですあります。昨日讀んだ、『史蹟 將門塚の記』 の中に、將門を祀る御靈神社が主なもので全國に十七か所あるといふ。その七番目にあげられてゐた神社です。地圖をだして確認したので間違ひありません。 

水道橋驛で降りて、まづ、せつかくですから、西秋書店だけにでも顔を出しました。そのおかげで、『萩野文庫本 宝物集』(在九州国文資料影印叢書) を見つけることができましたので、あとはるんるんで歩きはじめました。

 

西秋書店からは眞西に向かひ、専大通りを越え、日本橋川にかかる南堀留橋を渡り、目白通りにでたところで、ふと標柱に目がとまりました。「滝沢馬琴 硯の井戸」と書かれてあります。 

 「滝沢馬琴は安政五年二十七歳の時から、文政七年五十八歳までこの元飯田町に住みました。ゆかりの井戸がこの中坂下に残っています。自ら曲亭馬琴と号して南総里見八犬伝・椿説弓張月・俊寛僧都島物語等の多くの読み本を残しました。」 

 犬も歩けば棒にあたるくらゐですから、ぼくが標柱にぶつかつたつて、おかしくはありません。ふんふんと讀んでゐるうちに信号がかはつたので、井戸を確認するまもなくわたつてしまひました。そして、その先が中坂といふ坂でした。地圖によれば、九段坂と東西に行してゐる、けつこうな坂道です。と、その途中に、めざす築土神社はありました。やはり、標柱による説明がふるつてゐます。

 

 「天慶三年(九四〇)、関東平定の末、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明一〇年(一四七八)には太田道灌が江戸城の乾(北西)に当社社殿を造営。以来、江戸城の鎮守神として厚く尊崇された。」

 

いやいや、その築土神社の社殿は重厚ですばらしいとしても、入口に聳えるビルの先端に、御神刀でせうか、これには驚きました。ヤスクニに負けずに、「アベ政治」をたたつ切つてほしい、とふと心で願つてしまひました! 

 歸りは、神保町驛から新宿線で馬喰横山驛まで行き、横須賀線・總武線(快速)に乘り換へて新小岩驛まで二驛。先日はのがした、とんかつ屋「こいわ軒」で美味しいひれかつ定食をいただいて帰宅することができました。 

 

今日の寫眞・・標柱「滝沢馬琴 硯の井戸」。寫眞中央は九段會館でせうか。築土神社社殿。三枚目と四枚目は、築土神社の鳥居とその上に聳える御神刀ビル。五枚目は、靖國通りのお堀側から見た、ビルの谷間に建つ築土神社社殿。最後の一枚は、新小岩のとんかつ屋さん。