十月十六日(日)辛未(舊九月十六日・望 晴のち曇り

 

今朝のNHKラヂオ第2放送の〈古典講讀「むかし語りへのいざない~宇治拾遺物語~」は、第一〇五話「千手院僧正、仙人に逢ふ事」、第一〇六話「滝口道則、術を習ふ事」、そして、第一〇七話「宝志和尚、影の事」の三話でした。 

中でも、第一〇六話は、美女にはべつたら、「物」(一物、男根)が消え失せる話でした。 

「わが衣をば脱ぎて、女の懐(ふところ)へ入るに、・・男の前の痒きやうなりければ、探りて見るに、物なし。驚き怪しみて、よくよく探れども、頤(おとがひ=あご)の鬚を探るやうにて、すべて跡形なし。おほきに驚きて、この女のめでたげなるも忘られぬ。」 

伊東玉美センセイの解説がまた淡々として、「一物」がどうのかうのと、まあ愉快でした。 

 

今日の讀書・・今日も讀書。幸せな一日でした。半分讀み殘してゐた、織田正吉著『「古今和歌集」の謎を解く』(講談社選書メチエ) があまりにも面白く、といふか興味深くて、たうとう讀破しました。 

もちろん、引用される和歌と「假名序」は、和綴じでくづし字の 『古今和歌集』 の本文を讀むやうにして臨みましたから、時間はかかりましたが、實にいい勉強になりました。何しろ、『古今和歌集』 がこんなにも面白い仕掛けに富んだ歌集だとは思ひませんでした。 

「『古今集』は「言葉遊び」と「ユーモア」の歌集だった。(假名序の)間違いだらけの「人麻呂」像の不思議。六歌仙でありながら一首しか存在しない喜撰法師の正体とは? 一千余首に秘められた大いなる仕掛けを読み解き、国文学史上の謎に迫る。」 

ぼくは、讀んでゐて、ふと、小松英雄先生を思ひ出しました。既成の「常識」を出ようとしない學會の凝り固まるつた頭では、たうてい解せない面白さがこの本には、いや、『古今和歌集』 にはあるんですね。「『古今集』はくだらぬ集」であると言つた、子規や和辻哲郎のはうがくだらぬ人間に思へてしかたありません。 

 

今日の寫眞・・織田正吉著『「古今和歌集」の謎を解く』(講談社選書メチエ) と、和綴じの『古今和歌集』。