十月十五日(土)庚午(舊九月十五日 快晴

 

あまりにもよい天氣なので、書齋の掃除をしました。猫の毛も抜けてゐますしね、ふとんも干しました。 

すると、モモタとココが、日向ぼこをはじめたのです。いつも部屋の中で過ごしてゐますから、太陽の日差しが戀しかつたのかも知れません。日足が長くなつてきましたから。 

さういへば、猫は日光に當たらないと病氣になるといふ話をどこかで聞きました。本當でせうか? 

 

今日の讀書・・今日は、ちよつと集中して、『史料綜覽』 と 『日本紀略』 を讀みました。そして、朱雀天皇の時代、九三〇年から九四六年を讀み上げてしまひました。 

伊勢と賀茂の齋王については書きましたが、他に、平將門の亂と藤原純友の亂が起きて、それらが平定されるまでが記録されてゐました。これらは有名な亂ですが、他にも、出羽俘囚の反亂が起こつてゐます。例へば、將門の亂が小康状態にあるときでしたが、すでに隱退した「問題兒」陽成上皇がのんびり競馬樂しんでゐたその日に、はるばる出羽の國から奏上がなされてゐます。一應、平將門の亂の發端から引用します。 

承平五年(九三五年)二月二日 平將門、伯父常陸大掾國香ヲ殺ス 

つづいて、 

天慶二年(九三九年)三月廿五日 武藏介源經基ノ密告ニ依リテ、平將門謀叛ノ實否ヲ訊ネシム 

同四月十七日 出羽馳驛使俘囚ノ反亂ヲ奏ス 

同五月二日 平將門謀叛無實ノ由ヲ奏ス 

同月六日 陽成上皇競馬ヲ覽給フ、是日、出羽、重テ俘囚ノ反亂ヲ奏ス 

同月十五日 東西ノ兵革ニ依リテ、諸社ニ奉幣ス 

同月十六日 亂逆ニ依リテ、俄ニ東國介以下ヲ任ズ 

そして、將門の最期については、 

天慶三年(九四〇年)二月一日 常陸大掾平貞盛等、平將門ノ軍ヲ破ル 

同年三月五日 下野押領使藤原秀郷、平將門ヲ誅セル由ヲ奏ス 

同年四月廿五日 平將門ノ首ヲ梟ス 

以上。ただ、まだ藤原純友の亂のはうはおさまつてゐませんが、省略します。 

 

面白いと思つたのは、このやうに不穏な時代だつたにもかかはらず、將門の亂の動静が都に傳はる中、太政大臣藤原忠平が六十歳の誕生日を迎へ、その祝賀のために、六十の寺々が祝ひの讀經を獻げたり、宴會があちこちで開かれたりしてゐたことです。が、たまには、「是日、太政大臣忠平、兵亂ニ依リテ大饗を停ム」なんてこともありました。忠平にしたら、水を差された思ひだつたでせうね。 

また、「駒牽」が行はれ、いかに多くの馬が都のために徴用されてゐたかがうかがはれます。年月日は省きますが、「信濃望月駒牽」、「上野、武藏駒牽」、「是日、武藏諸牧ノ御馬ヲ覽給フ」などがたびたび記されてゐます。 

 

以上は、主に、『史料綜覽』 からの引用となりました。といふのは、『日本紀略』 は一つの史料ですが、こちらは一種の年表ですから、あらゆる史料から(要點をまとめて)引用されてゐます。それで、その時代全般が見渡せるのであります。ただ、それらをまとめたものですから、記事内容の細かい異同については本文を見なければなりません。が、まあその時代を概観するにはこの程度で十分でせう。例へば、 

天慶四年六月二十日 前伊豫掾藤原純友ヲ誅ス、 尊卑分脈 本朝世紀 古事談 今昔物語 大鏡 拾遺往生傳 

とあります。でも、この註のやうに擧げられてゐる六つの史料本文を、もし見たいとなれば活躍するのが、『大日本史料』 であります。『史料綜覽』 では書名だけ擧げられた史料の本文のすべてが、一册の中に掲載されてゐます。ですから、厖大な量になつてゐます。ぼくもだいぶ入手してはゐますです。はい。 

 

今日の寫眞・・日向ぼこするモモタとココ。妻が探してきてくれた、「がっちり手首サポーター」と、今日屆いた、影印本の 『御伽草子』(解説とも全二十四冊揃) です。