八月卅日(火)甲申(舊七月廿八日 臺風銚子沖を通過し東北に上陸

 

今日の讀書・・今日も終日讀書。もう、興味にあかせてあちこち拾ひ讀み。 

まづ、冷泉家關連本のうち、冷泉為任監修 『冷泉家の歴史』 (朝日新聞社)。そのうち、角田文衛「冷泉家の歴史」を讀みました。これは歴史を學ぶ上での心得をいくつも敎へてくれました。

 

『治承・壽永の内乱』は源平の戰ひではなく、坂東平氏の第三の反亂であつたこと。そもそも賴朝に協力した軍隊の八割は平家であると、これは大變嚴しく語つてをられます。第一次の反亂は平將門の亂で、第二番目は平忠常の亂。そして第三番目がこの(北條家の)平の時政の亂であるとのことです。 

また、なぜ源平の戰ひなどと誤解したかといへば、それは、氏(うじ)の名前と家(いえ)の名前を混同してしまつたからであると言ふのですが、ここはぼくにはよく理解できませんでした。 

つづいては、平安時代における女性は絶對に音では呼ばず、訓で讀むこと。式子内親王は、ですから、「しきし」とか「しょくし」とかではなく、「のりこ」としか讀めないこと。

 

それから、やつと藤原定家の功績に觸れ、第一は、彼が歌人として卓絶してゐたこと。第二の功績は、彼が多數の古典を校訂し、後世に傳へたといふことです。 

それで、思ひ出すのが、昨日讀んだ飛鳥井雅有の 『嵯峨のかよひ』 です。そのなかで雅有君が借りた、「土左の日記、紫の日記、さらしなの日記、かげろふの日記」などは、おそらく「源氏物語」も、それらは、定家が書寫した寫本ではなかつたでせうか。このことは決して忘れてはならないことだと思ひます。

 

さらに、氣づかされたのは、爲家の三人の息子たちのうち、爲氏の「二条家」と爲敎の「京極家」は南北朝時代に斷絶したと書きましたが、それは、二条家が大覺寺統に組みし、京極家が持明院統に属して敵對しあつてしまつたからなのであります。そして、そこで活躍したのが、京極家の爲兼であつたのです。 

ぼくは、前から京極爲兼についてちよいと興味があり、參考書も一册手に入れてゐたのですが、ここでやつと役に立つことができました。土岐善麿著 『日本詩人選15 京極爲兼』 (筑摩書房)です。その爲兼が、爲家の孫、定家の曾孫であつたことを今日はじめて知らされて、ぼくはなんだか感動してしまつたのであります。それで、その本の、「その業績と生涯」の章を熟讀しました。歌人なのか武士なのか、いや兩者兼ね備へた人物像にぼくはいかれてしまひました。 

さらに、第十四番目の勅撰和歌集 『玉葉和歌集』 を編纂したのが、この爲兼なんですね。古本屋に出かける元氣がまだ出ないので、久しぶりにネットの〈日本の古本屋〉を檢索したら、西秋書店に、『玉葉和歌集』 の影印本(正中二年奥書系統本)があつたのですぐ注文してしまひました。 

 

さて、影印本といへば、王朝文學に歸らなくてはなりません。當面の課題は、『蜻蛉日記』 ですが、雅有君も借りて讀んだ本でありまして、きつとそれは定家さんが(或いはその寫本工房が)書き寫した寫本であつたでありませう。ところが、ぼくが讀もうとしてゐるのは違ふやうです。解説によると、「現存の蜻蛉日記の主な古写本は殆ど江戸時代初期末の頃、相前後して書写されたものばかりである。その中で最も古く、かつ善本と思われる本が本書に影印した宮内庁書陵部蔵写本である」とあるのを、まあ、贅澤を言はずに味はいたいと思ひます。 

 

今日の寫眞・・今日、川野さんから屆いた、〈高麗郡一三〇〇年〉 に關する諸資料。川野さんが聽講した、講演會とシンポジウムのレジュメまであつて、ぼくの歴史の知識の空白部分を埋めるために、たいへん勉強になりさうです。川野さんも勉強を深めてをられるやうで、九月十六日の《東山會》の高麗散策には是非とも參加して、お話を聞きたいです。深謝。 

それと、古典文庫の 『飛鳥井雅有日記』 と、土岐善麿著 『日本詩人選15 京極爲兼』 (筑摩書房)。