八月二十七日(土)辛巳(舊七月廿五日 曇天のち小雨

 

今朝の體重は、60・3キロ。「めまい」はすでにおさまり、「倦怠感」が薄らいできたので、讀書も今まで通りの調子になつてきました。 

 

今日の讀書・・梓澤要著 『百枚の定家』 (新人物往来社)讀了。いやあ、盛りだくさんな内容で、たいへん勉強にはなりましたが、ミステリーを讀み終はつたといふカタルシスがなかつたかなあと言はざるを得ませんね。でも、勉強と思へば、これほど日本の歴史・文學・美術について幅廣く深く敎へられた本も珍しいと思ひます。以下、ぼくの覺えのためにも、また復習をかねて、著者の〈あとがき〉から引用したいと思ひます。實によくまとめられてゐます。 

 

「百人一首を編纂した藤原定家がみずから一首ずつしたためた、小倉百人一首のオリジナル、それが 『小倉色紙』 です。 

七十四歳の老齢で書いたとされています。・・・ 

定家の死後、それは忘れられ、いつしか行方不明になりました。子孫である二条家、京極家、冷泉家 『歌の家』 の宗家争いがあり、定家卿崇拜が過熱して、その偽書が争ってつくられました。歌道秘伝 『古今伝授』 が表なら、小倉色紙は裏──。ひそかに守り伝えられたのかもしれません。 

やがて約二百五十年の後、京の都を焼きつくした応仁の乱、そして室町幕府滅亡前夜、小倉色紙は突如、意外なところから姿をあらわしました。 

発見者は連歌師宗祇。旅から旅へ、地方の大名小名たちに文化と情報を売り歩いた人物です。宗祇は、伊勢の国守北畠家から譲り受けたとも、古今伝授の継承者である美濃郡上八幡の領主東常縁(とうのつねより)が百枚セットで所持していたのを半分の五十枚譲られたとも、いわれています。 

鑑定を依頼された当代一流の文化人公家三条西実隆は首をかしげましたが、千利休の師である武野紹鴎はそれを 『佗び茶』 の真髄と賞賛し、それからはそれを所持することがステイタスになりました。 

織田信長が、明智光秀が、細川幽齋が、太閤秀吉が、德川家が、競って手に入れました。公家も本願寺も堺の茶人も京の豪商も、眼の色を変えました。 

小倉色紙は秘蔵の宝になり、『伝説』 を生みました。 

松平不昧公は一枚千両で手に入れたといいます。・・・ 

寛政の改革で有名な老中松平定信は所蔵家を調査させ、谷文晁らに命じて綿密に書写させ、『集古十種』 に記載しました。堅物の彼も内心、欲しかったのかも。 

明治・大正時代になると、没落大名家からいっせいに流れ出し、政治家や財界人が懐の豊かさを武器に買い漁りました。・・・ 

どさくさにまぎれて高値が高値を呼び、怪しげなものも出てきました。案の定、贋作だらけという芳しからぬ風評が立ち、学会や古美術業界はそっぽを向いてしまいました。」 

 

とまあ、このやうな知識を前提にして讀んだなら、一層面白かつたかなと思ひます。ところで、ぼくは、著者はなんとなく男性だと思つてゐたら、なんと女性でした。 

 

今日の寫眞・・梓澤要著 『百枚の定家』 (新人物往来社)と、宗長著「宗祇終焉記」が入つてゐる金子金治郎著 『宗祇旅の記私注』 (桜風社)。 

それと、ネットで探しあてた、『集古十種』〈總目録〉の「小倉色紙之部(定家卿眞蹟)」の部分。ところが、今日屆いた、東京古書會館開催の〈古書卽賣展〉の目録を見ていたら、そこに、、『集古十種(第1~4)』(國書刊行會・明治41年)が出てゐて、それが八千圓でした。が、よく調べてみると、「小倉色紙之部」が載つてゐるのは、第4以下の後半のやうなんです。それで買ふのはやめて、ネットで閲覽することにしました。