七月廿七日(水)庚戌(舊六月廿四日・下弦 曇天のち晴

 

今日の讀書・・今日は、入院を明後日にひかへ、あらためてやることもなく、積んでおいた本の中から、林望さんの、『古典文学の秘密』(光文社文庫)を手に取つてみました。ゴロゴロと橫になつたり、モモタを膝に抱いたりして、しかし、一氣に讀み終へてしまひました。 

もとは、『本当はとてもえっちな古典文学』といふ題でしたから、内容は推して知るべしですが、でも、うれしいことに、紹介したといふか引用した例文は、先生お得意の譯文の前にすべて「原文」を載せてゐることですね。それもみな際どい場面なんですが、殘念ながらそれらをここで引用するスペースはありません。 

『古事記』、『日本書紀』にはじまり、『伊勢物語』、『土左日記』、『源氏物語』はもちろん、『とりかへばや物語』には、先生三十頁も費やしてその「頽廃の美学」を紹介してゐます。 

これだけだつて、いつたいどこに「えっちな」ことが記されてゐるのかと疑問を持たれるでせうが、それは、ぼくたちが、「目黑のさんま」ではありませんが、味もそつけもない古典文法をのみたたき込まれてきた結果でして、本當は、もう胸が高鳴り、わくわくしてしまふ内容なんですね。いや、それだけ日本人は「えっちな」ことが好きだつたんです。 

りんぼう先生も、書いてゐて、堪忍袋の緒が切れたのでせう、本文の最後を次のやうに締めくくつてゐます。

 

「古典文学というものを、ただもう『差し障りのない』ところだけ御用学者たちに抜き出させて、それで細切れのつまらない教科書を作り、それにまた、四段活用がどうの、係り結びがどうのと、片々たる文法と語彙の知識ばかり教えて暗記させる、それでは若い人たちがこれを読んで、自分たちとは無関係の世界だと思い込んでもしかたない。 

けれども、事実は、日本の古典文学は、こういうふうに我ら現代人とまるっきり変わらない恋の思い、性愛の悲しさ嬉しさなど、艶なる世界の万華鏡であって、それを読んでみれば、ああ古典というのは決して別世界のことではない、自分の今の暮らしや思いとおんなじことを書いているじゃないか、と、つくづく懐かしまれるに違いないのである。 

この「ほんとうの古典」の実相をちやんと教える、それこそがこの国の国語教育の大根幹でなくてはいけないのだが、現実はそこから隔たることはるかに遠い」。

 

また、よせばいいのに、嵐山光三郎先生まで、解説でおつしやつてをるのであります。 

「『古事記』が教える性愛の手順と神々の妊娠、『日本書紀』のSM趣味、『伊勢物語』の色好み、『土左日記』の貽貝(女陰)、『とりかへばや物語』の両性具有的スーパーウーマン、『今昔物語集』の異類婚姻譚(犬と結婚した女)、『閑吟集』の遊女評判記など、閨房の闇に侵入し、読者の心を揺るがす、危險な本である」。ぼくもさう思ひます。 

 

ところで、朝、パソコンの畫面を見て驚きました。液晶畫面が傷つけられてゐたのであります。それもど眞ん中! これは、モモタに違ひありません。が、怒るに怒れません。 

油斷してゐました。入院中、どんなことをしでかすかわかりませんから、被害を最小限にとどめるやう、片づけて行きたいと思ひます。 

今書いてゐるワードの畫面は白いので、傷が目立ちます。デスクトップなどの寫眞畫面では氣づかないほどなんですが、文章を書くのが當面の課題なので、ちよいと困りました。 

 

今日の《平和の俳句》・・「赤子の掌(て)ふっくらぱあと平和咲く」(八十一歳男) 

〈金子兜太〉 「ふっくらぱあ」が、赤ん坊の掌の擬態語とはうれしい。平和の咲いた様子にぴったり。口のなかで、平和平和としゃぶりたい。 

 

今日の寫眞・・今日のモモタとココ。靜かだなと思つて見に行けば、本箱の片隅で二匹仲よく寢てゐました。小憎らしいモモタを抱いて讀書。 

それと、朝のテレビ東京の番組。毎朝七時半から、中仙道の旅をやつてゐて、思ひ出しながら樂しく見てゐます。今日は塩名田宿でしたが、下諏訪宿までやるやうです。他の番組の騒がしさを逃れて靜かに見ることができるので食事も美味しいです。