六月十三日(月)丙寅(舊五月九日 雨のちやむ

 

今日の讀書・・いやあ、また面倒なことになつてしまひました。といふか、また手を廣げてしまつたのです。昨夜から讀みはじめた、富士正晴著『パロディの精神』(平凡社選書)があまりにも面白いのであります。ついでに、そこで語られてゐる、「幽斎細川藤孝の口述を烏丸光広が筆記した書」である『耳底記』(じていき又にていき)の原書を求めて、例の、〈宮内庁書陵部 畫像一覽〉を開いたら、あるではありませんか。さつそくコピーをして加工し、プリントしました。まあ、上中下三卷のうちの上巻のみですが、引用されてゐるところを原書であたれるなんて、こんな幸せはありません。すぐにでも和本綴じにしたいと思ひます。 

もちろん、内容は難しいですよ。なにせぼくの苦手とする「歌論書」ですからね。でも、これは、後陽成天皇の侍中(藏人)であつた「烏丸大納言光廣卿」が質問し、それに「細川幽齋法印玄旨」が應へるといふ問答形式の歌論書なんです。しかも、この問答を通して和歌を學んだ烏丸光廣が、後に「古今傳授」を受けるといふのですから、興味がわきます。 

それだけではなく、『耳底記』を讀み取つていく、富士正晴さんの語り口がいいのです。ぼくは好きですね。「筆録された問答の期間は慶長三年(一五九八年)から慶長七年(一六〇二年)までの四年間に及」び、その時代に生きた細川幽齋の政治的な動向を隨處にちりばめてあるのがまた魅力的です。信長、秀吉、家康との關はりはもちろん、前田利家を見舞ふために加藤清正、淺野幸長、細川忠興と同行したこと。そこには、淺野長政、副島正則、池田輝政、黒田如水、藤堂高虎もゐたといふことです。 

そのやうな時代的には大波瀾のただなかで、古今傳授が進められてゐたのでありますね。當時二十歳の紅顔の美少年だつた烏丸光廣君も、後陽成天皇から、「歌学なるまでは朝へきてはならぬ」と言はれ、それを勵みに、二十歳から二十五歳までの間、幽齋先生のもとに通ひ詰め、學びつづけたその姿勢が實にいいです。「古今傳授」はその結果といふことでありませうけれど、敎へられるところがありますね。 

 

それと、今日、雨にずぶ濡れになつてゐたノラの黒猫を捕獲し、我が家の二階につれてきました。ところが、人なつこくて、初對面のぼくにもすりよつてくるのです。近所のどなたかが飼つてゐたのに、その飼ひ主が亡くなられたかしたのではないかと推察しました。まだ子どものやうな感じです。 

潛んでゐた家の方に協力してもらつて捕獲できたのですが、その家では飼へないといふし、飢え死にとか事故にでもあつたら可哀想です。家に入れても、びくつくことなく、食事をして、用意した寢床に入つて休んでゐます。ガリガリですから、まづは食事をたつぷり與へたいと思ひます。 

さう、名前は、潛んでゐた家の娘さんが太郎と呼んでゐたので、いつそのこと、モモタロウにしました。 

 

今日の《平和の俳句》・・東京新聞休刊日につきお休み。 

 

今日の寫眞・・富士正晴著『パロディの精神』(平凡社選書)とプリントアウトした『耳底記』。それと、我が家のモモタロウです。二年前に死んだラムの代はりにはなりませんが、同じやうに可愛がつてあげようと思ひます。