六月八日(水)辛酉(舊五月四日 曇りのち晴

 

今日の讀書・・今日は、終日橫になつて讀書。あれこれつまみ食ひならぬ、つまみ讀みを樂しみました。なかでも、『大和物語』では發見がありました。百五十六段です。

「信濃の國に更級といふ所に男すみけり」、ではじまる「おば捨(山)」の話です。まさか、平安時代の昔から語られてゐた物語であつたとは知りませんでした。それも、貧しさのゆゑにではなく、ここでは親をではなく、亡くなつた兩親にかはつて育ててくれたおばをですが、そのおばを憎む妻の言ふがままに山奥に捨ててしまふといふ内容です。 

次は、中野三敏先生の、『書誌学談義 江戸の板本』(岩波現代文庫)です。「一・板本というものの性質」と「二・板式」と「三・書型」について學びました。とくに「書型」は、手元にある和本を見ながらですから、よくわかりました。先日の『四季草花名集』は細長で、「三つ切り」といふ大きさなのださうですが、「米の相場付けだとか、器物の物価表、さらには人名録類や忌辰録の類い」に用ゐると記されてゐました。さういへば、『四季草花名集』の裏には、大きく「當座帳」と墨書されてゐますから、メモ帳として使はれてゐたのでせう。それにしても、その裏側は蟲喰ひだらけです。 

さらに、樋口正則著『おもしろ古文書館 江戸のかな』(名著出版)を開いてみました。なにせ、寢轉んでですから、大きい本は持ちにくいし讀みにくくもあるのですが、つい面白くて、Ⅰ章の「小倉百人一首」のところを讀んでいきました。取り上げてゐるのは、八つの歌だけですけれど、「かな」を一字一字解説しながら讀んでいくので、實によい復習になります。とにかく、江戸の「かな」は連綿體ではありませんが、獨特のくづしなので、なれないと間違つてばかりゐます。まあ、このあたりで、かな書道のやうに、實際に繰り返し書いて覺えることも必要かも知れません。 

また、『今昔物語集(本朝世俗部)』の、陰陽師活躍の個所に記されてゐる地名を、地圖によつて一つ一つ確かめてみました。朱雀門や羅生門など。京都の地圖を開くのは久しぶりですが、すでに『歴史紀行』で訪ねた所などが思ひ出されて、樂しく調べる事ができました。 

 

ついでに、といふか補足ですが、昨日求めた影印本のつづきです。實は、どんな本なのかよくわかりもしないのに、みな、二、三百圓だからといふので求めたものばかりですが、それが掘り出し物だつたやうなのであります。 

まづ、『井蛙抄(せいあしょう)雑談篇 本文と校異』(和泉書院)は、一三六二~六四年頃成立した、南北朝時代の歌学書で、頓阿といふ坊さんが書いた本で、その寫本の影印です。すらすらと流れるやうないい字です。 

『冬の日 尾張五歌仙全』(武藏野書院)は、山本荷兮編、貞享元年(一六八四年)成立、一六八五年刊の俳諧撰集です。「『野ざらし紀行』の途次,芭蕉が尾張の連中と巻いた歌仙五巻を収める。蕉風を確立した書。俳諧七部集の一。尾張五歌仙」、といふものです。

 

ちよつと氣になつたのは、この中に、杜國の作品が見られることです。後に、「夢にまで杜国を見て泣いたというほど杜国の天分を愛した芭蕉は、貞享四年(一六八七年)十月、『笈の小文』の途中、鳴海より門弟越人(えつじん)を伴い、愛弟子の悲境を慰めようと二十五里の道を引き返し、保美の閑居に杜国を尋ね得」て、再会したといふ、そのお二人の出會ひを提供したのが、『尾張五歌仙』の時ではなかつたかと、ぼくは推察しました。 

「芭蕉は美少年や美青年の弟子を特別、寵愛したといわれていますが、芭蕉と衆道関係を持っていたことが明らかになっている弟子は坪井杜国(とこく)だけです」、と讀んだことがあります。その杜國さんとの再會の翌日、同行三人は、杜國の案内で、伊良湖崎に吟行の杖をはこび、芭蕉の名句と言はれる、「鷹ひとつ見つけてうれし伊良湖崎」は、このとき詠まれたのでありますね。 

 

今日の《平和の俳句》・・「さて寝ようきょうは何もなかったから」(七十四歳女) 

〈いとうせいこう〉 よい一日。よい夜だ。「きょう悲しいことがあった」のでは寝つくこともできない。「きょう何もなかった」ことの平凡な幸せよ。 

 

今日の寫眞・・新聞の切り抜き。今日の美奈子さん最高! 冴えてゐますね! それと、今月下旬に展覽會を行ふといふ弟の絵と、今日の讀書關係本。