五月卅一日(火)癸丑(舊四月廿五日 曇りのち晴

 

今日の日記・・昨夜、突然マキさんから電話があり、それで、今日は、柴又に行つてまゐりました。 

藤卷さんは山梨縣出身ですけれど、もう若いときから東京で暮らしてゐるのに、まだ柴又に行つたことがないといふので、うな重も待つてゐますし、こんど行こうと約束はしてゐたのです。それが、昨日の今日、ぼくも暇人ですから、お付き合ひすることにやぶさかではありませんが、一緒に行きませうとお誘ひしてゐた、靑戸在住の服部さんは、案の定お仕事があつて同行不可。ただ、今日中に、實家のある山梨市の家に行かなければならないといふのでありますからいたしかたありません。 

マキさん、八月半ばまで、果樹園である實家のお仕事を手傳ひにいかれるのでありまして、さういへば、ぼくもその餘禄といふかご相伴に與つてゐるのでありまして、それで快く送り出したい、その一念でありました。

 

京成柴又驛前の寅さん像の前で待ち合はせ、參道の商店街を通り抜けて、まづは、帝釋天にお詣り。記念寫眞も撮りました。建物に近づくと、ここの彫り物がいいんですね。實にいい。日光東照宮などのやうにけばけばしくなく、彫刻として、レリーフとしてもぼくは一流だと思ひます。 

それから、境内を通り抜けて寅さん記念館と山田洋次ミュージアムを見學し、江戸川の土手の上で風に吹かれながら談笑。遠くには、矢切の渡しも望めました。 

晝食は、再び參道にかえりまして、ご存じ川千家でうな重をいただきました。まあ、これが目當てといふわけではありませんでしたが、これで思ひ殘すことはありません。再び京成電車に乘つて歸路についたのでありました。

 

ところで、ものごころついた時から乗つてゐる京成電車ですが、今、高砂驛では、一度改札口を出て、再び金町線の改札口に入らなければなりません。どうしてでせう。だつて、つい先だつてまで、上野驛から金町行が出てゐたんです。それだけに不思議です。 

マキさんとは、ぼくは堀切菖蒲園驛で下車したので、そこで別れました。山梨までの中央本線は特急列車も多く、便利ではあるやうです。 

 

今日の《平和の俳句》・・「わたしたち平和のじだいを作ろうよ」(九歳女) 

〈金子兜太〉小学生でも、今が「平和のじだい」ではないと心配しているのだ。だから「作ろう」とは頼もしい限り。たしかに平和は作るもの。 

 

今日の寫眞・・柴又帝釋天にて。