五月廿八日(土)庚戌(舊四月廿二日 晴のち曇り

 

今日の讀書・・今日は、修善寺へお泊りのお仕事です。問題はどの本を持つていくかですが、讀みかけの『妙好人』と、これまた途中までの「ひらがなの美学」の二冊を持つて家を出ました。 

すると行きの新幹線で『妙好人』は讀み終へてしまひました。まあ面白くはありましたが、概念的な内容で、やはり『妙好人傳』の原文を讀む必要を感じました。 

宿泊は、またも最高級のゲストハウスで、食事も最高、讀書がはづみました。

 

それで、『ひらがなの美学』(新潮社・とんぼの本)のはうですが、石川九楊先生の講義もさることながら、ぼくには草書體のかな文字解讀のお勉強もかねてゐます。それがよくもまあ、くねくねと書いたものです。單純に和歌を鑑賞するためのものではなく、美的な、もしくはそれ自身が繪畫的な美を追究してゐるんですね。書かれてある紙、料紙といふのですか、それもまた素晴らしいものです。 

ですから、和歌の一文字を抜かしたり、途中で行をかへることは茶飯事で、石川九楊先生も次のやうに言つてゐます。

 

「書道界では最高の規範となる平安古筆ですが、詩句の恣意的な改変がめだち、脱字が少なくないという理由で、国文学の世界における評価はじつは低い。つまり見た目は美しいけれど内容はいい加減だ、というわけです」。

 

まあ、これはどちらに軍配をあげたらよいか、それはもちろん石川先生です。先生によれば、美の追究のために、さうせざるを得なかつた必然がある、それを揚げ足をとるやうに批判しても、何も成果はないといふわけです。 

書道の世界と國文學の世界が、どんな關係にあるのかわかりませんが、言はれてみれば、同じ「古筆」に對する取り組み方といふか、そこから何を感じ取るかが、根本的に違ふのでせうね。 

で、先生のその説明は省きますが、ぼくなんかは、ろくに讀めないうへに、一字脱字があつたりしては、文意がつかめません。さういふ意味では和歌を楽しむ本といふよりは、やはり、見て感じて楽しむ世界がここにはあるのだなあと、思はざるを得ませんです。はい。

 

ラフォーレ修善寺では、どういふわけか、BSが映らないのです。それで、ついつい讀書に勵んでしまふのですが、さすがに疲れたらしく、早々に就寢いたしました。 

 

今日の《平和の俳句》・・「人生を自由に選べる平和かな」(十五歳男) 

〈金子兜太〉やりたいと思うことがやれる自由、これが平和の第一条件なりと、この中学三年生は決めている。 

 

今日の寫眞・・最近氣に入つてゐる飴。朝ご飯を食べる我が家のノラたちと、『ひらがなの美学』の中から、美しい「古筆」の例。それと、先日通讀し、終りのはうはつまらなくて讀み飛ばした佐藤圓著『ひらがな物語』(アロー出版社)と、五十嵐明宝著『妙好人』(本願寺出版協会)。