五月廿日(金)壬寅(舊四月十四日・小滿 曇天

 

今日の讀書・・昨日は、そんなことで、定例の國會議事堂參りはせずに歸宅してしまひました。が、問題は深刻度を增してゐると思はざるを得ません。といふより、なんだか、歴史を多少は學んだ氣持ちからいへば、最近、さう、小泉首相のあたりから、當然と思つてゐた、この國の規範的なものがどどどと崩れてきたやうに思はれるのです。働く者が働いた正當な報酬を得ることができなくなつたことをはじめとして、憲法を憲法と認識できずに、といふか無視して自分勝手が横行することを頂點として、今まで積み上げてきた先人の知恵といふか知性的ないとなみが、軒竝み崩壊現象を起こしてゐるとしか思へないのであります。 

當り前だつたことが古いのか、言ひたい放題、やりたい放題が新しいのか。力ある者、聲の大きな者が、やりたい放題といふのはなんとも許しがたく悔しいぢやありませんか。 

その點、歴史は正直です。學べば學んだだけ應へてくるものがあります。こちらの問ひに對して答へてくれる手應へが感じられます。決して敵前逃亡はしたくはありませんが、無力感に陷りがちな自分をどうしたら奮い立たせることができるのでありませうか。 

 

そこで一言。パスカルの『パンセ』(創元文庫)より。 

「力のない正義は無權力である。正義のない力は壓制である。力無き正義は反對される。世には常に惡人が絶えぬからである。正義なき力は彈劾される。だから正義と力とを結集しなければならない。そしてそのためには正しい者を強くあらしめるか、強い者を正しくあらしめなければならない。」(關根秀雄譯) 

遠い昔に言はれたことが、今また、否、まだ新しいといふのは、人類は進歩どころか油斷をすればすぐにでも退化するといふことでせう。それほど正義は脆弱なのでありませう。健康管理を常にしてゐなければ、世に巣くふ病原菌ならぬ惡人に犯されやすいものだといふことであります。

 

さらにもう一言。 

「私の引いた一本の線は言い訳ができない。逃げ隠れも一切できない。どこにも、誰にも、責任をなすりつけることができない。一本の線は、私と一体になっている。私そのもの。あなたの人生も、一本の線。」 

これは、篠田桃紅さんのお言葉であります(『人生は一本の線』幻冬舎)。人生はかうありたいものだと思ひます。勇氣を與へられる一言です。 

實は、これは妻が今日買ひ求めてきた本なのですが、ぼくは、讀みながら、なんだか涙が出てきてしかたありませんでした。「人は、自分で考えて、自分でやっていくよりしょうがない。究極、人は孤独なんです」、なんてね、これが一〇〇歳を越えた方のお言葉と思へるでせうか。 

 

今日の《平和の俳句》・・「高校生河原で抱き合う平和かな」(八十四歳男) 

 

今日の寫眞・・パスカルの『パンセ』(これは翻譯本でありながら、正字・歴史的假名遣ひなので愛讀してゐます)と、篠田桃紅さんの『人生は一本の線』。