五月十三日(金)乙未(舊四月七日 晴、暑い

 

今日の讀書・・『大和物語』(九五一頃成立)と『宇治拾遺物語』(一二二一頃成立)を讀してゐて氣づいたことがあります。それは、『大和物語』が、讀者を對象にしてゐないといふか、讀者を念頭においてゐない、極めて内輪のささやき話か噂話であるのに對して、『宇治拾遺物語』は、明らかに讀者を念頭において、人々を面白がらせる内容になつてゐます。ここに、「歌物語」と「説話物語」の違ひがあるやうに思ひました。といふか、物語が物語として發展したといふことのひとつのあかしなのでせう。 

それで、その中間に、例へば『源氏物語』(一〇〇五頃)が位置してゐるわけで、これなんか、回し讀みの回覽板みたいな位置とでも言へるでせうね。まだ、開かれた普遍的な内容とはいへない段階の物語だと思ひます。とはいへ、まだ讀んでませんから、斷定は避けますけれど。 

それとです、『大和物語』を讀んでゐたら、またまた發見しました。先日讀んだ谷崎潤一郎の『少將滋幹の母』のネタと思はれる話です。一二四段です。

 

「本院(藤原時平)の北の方の、まだ帥(そち・大宰府の長官)の大納言(藤原國經)の妻にていますかりけるおりに、平中がよみてきこえける」と、詠んでさしあげた歌は、「あなたを妻として共寢をしたいのですが、どうですか」、といふものでした。 

さらに、返事がないので、「今、(左大臣時平の妻として)ときめいてをられますが、わたしが昔あなたと將來を約束したことを覺えてをられますか」といふ歌を送つてゐます。 

といふことを勘案すると、平中は、國經と夫婦であつた時からその妻とは關係してゐて、ついその方のことを時平にもらしてしまつたのでせう(ただこれは谷崎潤一郎が語るところですが)、時平が横戀慕して、國經からその妻を奪ひ取つてしまつたわけでした。これで、谷崎潤一郎が書いた物語の内容が裏付けられました。 

ただ、國經とその妻の子である滋幹についてはここではひとことも語られてゐません。で、そこに創作の餘地が殘されてゐたわけでありました。と、ぼくは解釋しました。 

 

また今日は、OCNプレミアムサポートに電話し、パソコン點檢を行つていただきました。とくに、動作が遲くなつてきたことを重點にみてもらひました。 

 

今日の《平和の俳句》・・「日溜まりの四つ角明るい方へ行く」(七十三歳男) 

 

今日の寫眞・・我が家の路地裏に憩ふノラたちと、〈宮内庁書陵部 畫像一覽〉からコピーした『いほぬし』。これで綴じれば册子になります。