五月十二日(木)甲午(舊四月六日 晴

 

今日の讀書・・今日も『大和物語』を讀んでゐたら、增基といふ「法師」にでくはしました。百二十二段と百二十三段です。それで、ちよいと調べはじめたことがきつかけで今日は大騒ぎでした。 

まづその本文には、「增喜君(きみ)といふ法師ありけり。それは比叡にすむ、院の殿上もする法師なむありける」とあつて、宇多法皇の院の御所に昇殿することが許されたほどのお坊さんらしいのですが、「草の葉にかかれるつゆの身になればや心うごくに涙おつらむ」(草の葉のうへの露のやうな身だからでせうか、あなたへの戀心が動くと、涙が落ちてなりません)といふ歌を女性に送つたりして、やはり柔らかいお坊さんのやうなのであります。 

ところが、注釋書によると、この增喜さん、「增基とも書かれ、『いほぬし』の作者」であると書かれてあつたのです。聞いたことのある書名でしたが、最近はネットで調べることが多く、はじめに、『いほぬし』(庵ぬし)がどんな書物なのか、できれば讀んでみたいと思ひ、ネットで「いほぬし」を檢索してみました。

 

〈いほぬし〉をはじめ、〈いほぬしーコトバンク〉とか、〈增賀法師集〉、そして、〈宮内庁書陵部―國文學研究資料館〉といふところを開いところが、そこに寶の山を發見したのであります。つまり、我が國の古典文學の寫本(の寫眞版ですが)、それがすべて閲覽できることを發見したのです。これは、ぼくにとつては大發見も大發見。なにしろ膨大な量の寫本です。これが讀めれば、わざわざ高價な本を探し回つたり買ふこともなくなると、だいぶはしやいでしまひました。 

ところが、「開けゴマ」ではありませんが、その寫眞版の寫本をコピーといふかプリントアウトする方法がどうやつても見つからないのであります。畫面で見えるだけでは、持ち歩いて讀むことはできないからであります。

 

それで、だいぶ試みたすゑに、たうとう、いつもの友人たちの手と知惠を借りようと思つて、メールでお願ひしたんです。すると、三名の方から回答がありました。ありがたいですね。岩井さんと、森さんと、川野さんからでした。ところが、その書かれた通りやつてもできないのです。かう言つては大變失禮ですが、ご本人はおわかりなんでせうが、ぼくにはちんぷんかんぷん、それで、お三方に、三つのやり方を竝記して、それぞれにぼくがどこが分からないかを書き入れて返信したのです。 

すると、しばらくして、岩井さんから携帶に電話がありました。岩井さん、この道のプロですから、責任を感じてくれたからなんでせうか。そしてあれこれ指示をしてくださり、そこでもあれこれ試行錯誤のうへ、やつとA4用紙にプリントアウトすることができたのであります。いやあ、大乱闘でした。いへ、ぼくの心と頭の中がですが、それが夕方になつてやつと解放されてのでありました。もう、感謝の言葉も見つかりません。 

 

ちなみに、增基法師(ぞうきほうし)は生没年未詳。平安中期の歌僧で中古三十六歌仙のひとり。一〇世紀後半ころに活躍した人物と考へられてゐます。 

また、『いほぬし』は歌集でもあり、歌日記でもあり、それで『増基法師家集』ともよばれる熊野紀行なのです。 

「京都から中辺路を經て本宮に參詣し、本宮から新宮の御船島を經、伊勢路を歩き、花の窟を經て京都に帰る熊野詣の紀行文」といふことです。 

その冒頭の文章がいいので、ついでに寫しておきます。 

 

「いつばかりのことにかありけん。世をのがれて、こころのまヽにあらむとおもひて、世のなかにきゝときく所々、おかしきをたづねて心をやり、かつはたうときところところおがみたてまつり、我身のつみもほろぼさむとある人有けん。いほぬしとぞいひける。神無月の十日ばかり熊野へまうでけるに、人々もろともになどいふもの有けれど、我心ににたるもなかりければ、た忍びてとうしひとりしてぞまうでける」 

 

つけたり・・「いほぬし(庵主)という人物に仮託し、熊野紀行は住吉、吹上などを経ての熊野参詣(さんけい)記で、観念的な無常観とともに旅先の風物や僧庵の風情をも描き出し、とくに家集から日記文学への発展を示唆、また後の歌僧たちの風流行脚(あんぎゃ)の先駆をなす」。 

「『いほぬし』は一一世紀中頃には成立していて、平安後期の熊野を知ることのできる史料の一つ。それによると、本宮には庵室が二〇〇から三〇〇も作られ、止住する修行者は礼堂に出仕して例時作法の勤行を行い、額ずきながら陀羅尼を誦していた。霜月には天台の法華八講を行っていたという」。 

 

今日の《平和の俳句》・・「連れションを孫と一緒にする平和」(六十六歳男) 

 

今日の寫眞・・〈宮内庁書陵部 畫像一覽〉發見から、プリントアウトするまで。と、それをA4用紙畫面いつぱいに擴大できたところまで。