四月廿四日(日)丙子(舊三月十八日 小雨のち曇天

 

今日は、昨夜から引き續き、OCNの「マイポケット」にピクチュア(寫眞)をアップロードしました。だいぶ溜まつてしまつてゐたからです。特に、旅の寫眞は枚數も多くて時間がかかるので、本を讀みながらやりました。それで、どうにか、「デジアルバム」に「ひげ日記寫眞」(「デジアルバム」の中から『ひげ日記』のために選んで加工したもの)、「歴史紀行」や「中仙道を歩く」、「歴紀精選加工」(『歴史紀行』のために選んで加工したもの)とか「小さな旅」、「分類写真」などのファイルに収められてゐた大量の寫眞をバックアップできました。 

それと、その中からピックアップして、試しにダウンロードもしてみました。これができなくては意味がないわけですから、たまにはやつて忘れないやうにしたいと思ひました。 

それで、問題なのは、では今パソコンに溜められたどの寫眞を削除するかです。パソコンを輕くするためには必要だとは思ふのですが、バックアップはしてあるものの、やはり不安は拭へません。 

 

*國會議事堂への道(その三) 

待乳山聖天をあとにして、淺草奥山に向かひました。でもいきなり淺草寺に向かふのもつまらないので、吉野通りを横斷し、淺草六丁目から三丁目に向けて歩きだしました。問屋街なのか、ただの商店街なのか、ちよつとつかみ所のない通りをたどつて行きましたら、ふとある建物の角の電柱に、「旧町名 浅草猿若町 浅草6・17」といふプレートが貼つてあるではありませんか。 

由緒ある町名が、のきなみ何町何丁目になつてしまつた東京ですけれど、それを惜しむといふのか、間違つて、唯々諾々と受け入れてしまつた行政のやり方に、やつと氣がついた人々がゐたんでせう。すまなさうに、「ここは、かつては淺草猿若町といつたんですよ」と、通りかかる人にせめて傳へたい、そのやうなあかしなんではないかと、その複雑な心境を慮つてしまひました。

 

後日、昭和三十七年發行の區分地圖帖とみたら、このあたりは、待乳山のある淺草聖天町からはじまり、西に向つて、淺草猿若町、淺草馬道、淺草象潟、淺草千束町となり、さらに見渡すと、光月町とか、龍泉寺町とか、金杉上町とか、入谷町、そして根岸方面となるわけですね。それが今や、光月町は無くなるし、押し竝べたやうに淺草何丁目、千束何丁目に變へられてしまつたのでありました。町名や地名は住んでゐる人々の歴史を物語るものであつて、行政といふかお上が勝手に弄つていいものではないことも、庶民には把握されてゐなかつたのでせう。いや、今だつて、お上に唯々諾々といふところは全然變はつてゐないのかも知れません。でなければ、おばか揃ひの代議士が選ばれて、國を壊すことを指を咥へて見てゐるはづないですものね。 

それにくらべて京都は偉い、と改めて思ひます。例へば、「上京区千本通り廬山寺上る閻魔前町」とか「伏見区醍醐西大路町」なんていふ町名、東京のみなさん、信じられますか? このやうな地名・町名が殘されてゐるところが京都なんです(『歴史紀行六平安京編二』參照)。 

それで、ぼくは東京の淺薄さといふか底の淺さといふか、薩長にしてやられた江戸、いや東京の庶民のばかさ加減に嫌氣が差して、今までまつたく江戸に興味がわかなかつたのでありますが、再びその淺薄な町の住民のひとりになつた今、そんなことを言つてゐるだけでは負け犬の遠吠えでしかありませんので、遺跡發掘ではありませんが、歩き回つて江戸を掘り起こす以外に心安まる道はありません。はい。

 

いや、大きく出てしまひましたが、それをやらなければ、今もつてお上に踊らされて騒いでゐる庶民はじめ、觀光客だかに荒らされるばかりではありませんか。 

むろん、江戸・東京に關しては、たくさんのといふより膨大な關連本が出てをりまして、參考にはなりますが、それらの九分九厘は單なるガイドブックでしかありません。やはり、自分の足でたどつて歴史を掘り返すしかないと思ふのであります。

 

あッ、それと、猿若町ですが、『江都近郊名勝一覽』によりますと、「猿若町=まっち山より西の方にあり。猿若壱丁目は中村勘三郎座、同弍丁目は市村羽左衛門座あり・・。依て猿若の三町、四時の賑わいいわんかたなし」といはれてゐたところなんです(今井金吾著『江戸名所記』より孫引き)。それが、今や普通の商店街に、とかういふところだつたのでありますね。(つづく) 

 

寅ちやんが心配です。どうしたもんでせう。このままコンクラーベしてゐればいいのでせうか? 

 

今日の讀書・・中一弥著『挿絵画家・中一弥』(集英社新書)、昨夜より繼讀中。 

 

今日の寫眞・・東京と京都との住居表示の違ひ。それに、今日の切り抜き。

 



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