四月廿二日(金)甲戌(舊三月十六日・望 晴のち曇り

 

先日(十八日)、「今年になつて求めた薄汚れた和本」として、熊沢蕃山著『集義和書』や、貝原益軒の『和俗童子訓』の端本などを求めたことを報告しましたが、調べるまでもなく、すでに翻刻されてゐるものばかりでした。 

『集義和書』は、江戸時代の隨想録で全十六卷。寛文十二年(一六七二年)刊。蕃山の思想と學問を問答形式によって論じた書で、ぼくが求めたのは、その内の一册、〈卷第十四 義論之七〉から〈卷第十六 義論之九〉までです。これが五百圓。 

『和俗童子訓』(わぞくどうじくん)は、儒學者貝原益軒によつて書かれた教育論であり、『養生訓』、『大和本草』などと竝んで彼の代表的な著作であります。しかも、彼が八十一歳の一七一〇年に執筆され、日本で最初の體系的な教育書といはれ、寺子屋で多く用ゐられたやうなんです。 

ぼくが求めたのは、その内の一册、〈卷之四 手習法〉から〈卷之五 敎女子法〉までです。ちなみに、「敎ル女子法」と讀みます。たいていの本では缺けてゐる「奥書」には、「安永二癸巳年九月再校」とあり、なんと一七七三年刊行の和本です。これが三百圓。 

 

でも、かうして、原文のくづし字でだと讀まうといふ氣持ちにさせるものつて何なんでせう。不思議ですが、いつでも讀めて、時には讀み流してしまへる翻刻版と違つて、一字一句を讀み解くといふ基本的な讀書行爲をなさしめる何かがあるんですね。これはとても大事なことで、ぼくらが近頃忘れてゐたことではないでせうか。 

そもそも理解できるものを讀んでもさしてお勉強は深まらないのでありまして、硬い物を囓り、咀嚼する力を養ふことが急務だと思ふわけなのであります。ぼくは音樂は、ではなく音樂「も」にがてですが、樂譜通りに演奏するといふのは、自らの癖とか技量、それには知性も含まれると思ひますが、いはば自分を越えていく行爲です。これをぼくは最近忘れてゐたやうなのでありまして、「和本リテラシー」に誘發されて、學生時代以來心がけてゐたそんなことを改めて思ひ起こしました。 

 

*國會議事堂への道(その二) 

今戸神社に來てはじめて、ここが「沖田総司終焉之地」であるといふことを知つたのですが、それこそ、《散歩をすれば歴史に出會ふ》でした。 

説明板には、「沖田総司は当地に居住していた御殿医松本良順の治療にも拘わらず、その甲斐なく当地にて歿したと伝えられている」、とありました。 

沖田総司(一八四四~)といへば、事典風に言へば、江戸末期の新撰組隊士。陸奥白河藩を脱藩し、新撰組設立當初から參加。鳥羽・伏見の戰ひには參加できず、鳥羽・伏見敗戰後、隊士と共に海路江戸へ戻り、いずれにせよ、發症した肺結核のために中途での落伍を餘儀なくされ、以後は幕府の醫師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿はれ、近藤勇斬首から二ヶ月後の慶應四年(一八六八年)に死去、となるでせうか。 

といふことで、匿はれた千駄ヶ谷から今戸まで逃げてきて歿したといふことなんでせう。池田屋事件で活躍した(?)、せつかくの天然理心流の劍法も、病には勝てなかつたのです。 

また、墓所は東京都港區廣尾の有栖川宮記念公園の近くの專稱寺にあるやうです。それは、すぐそばに陸奥白河藩の下屋敷があつたからで、沖田総司はここで誕生したのですね。さういへば、寛政の改革を行つた松平定信もたしか白河藩主でした。でも、藩主が下屋敷に來ることはなかつたでせうが。 

 

と、まあ、歴史といふものは、一種立體的な網の目のやうなもので、縱(時間)軸と横(空間)軸に張り巡らされたその一點一點をつないでいくことに歴史を學ぶ面白さがあるのではないかと思ひます。ぼくなんかいまだ點の集積の最中にすぎませんが、それらが縱横に關連しはじめたらしめたものです。 

その縱軸を行き來できるやうにするのが、中野先生によれば「和本リテラシー」と言ふことになるわけで、もちろん翻刻版でもいいから明治以前の原文を讀めることが缺かせないと、かう思ふわけなのであります。 

學ぶといふことは、このやうに點と點の連關を見出だしていくことであつて、それによつてこそ全體の有機的つながりが見えてくるのでありまして、點々の事柄は單なる知識といふか物知りでしかないのでありますね。そこのところをわきまへてゐないと、歴史歴史と稱へながら何も身につかないといふことになりかねませんのです。むろん、自戒をこめてです。はい。 

 

さて、招き猫の見送りを背に境内を通り抜け、都立淺草高校に沿つて、山谷堀公園にやつてきました。櫻の見頃は過ぎさつて葉櫻の竝木道、といつてもかつては山谷堀といふ川で、吉原へ通ふ舟が上り下りしてゐたところですが、今や埋め立てられて、想像がゆるされるだけの細長い公園と化してゐます。そこを今戸橋までくだり、といつても今戸橋も今では橋の標柱しか殘されてをりませんが、東京スカイツリーを見上げながら、右折して、次なる待乳山聖天に向かひました。 

ここも、時代小説には缺かせない名所です。『江戸名所圖會』(角川文庫)によれば、「この所今は形ばかりの丘陵(をか)なれど、東の方を眺望すれば、墨田河の流れは長堤に傍うて溶々たり。近くは葛飾の村落、遠くは國府臺の翠巒まで、ともに一望に入り、風色尤も幽趣あり」、とあつて、その近くの葛飾からかうしてやつてきたのでありますが、展望は良くはありません。今や眞下に流れる隅田川すら目に入らないのであります。 

前にのぼつたことがあるので、今日は、〈池波正太郎生誕の地〉碑を再確認して、と思つたら、以前とは別の場所に移動されてゐました。道標でないからいいですが、記念碑なども無闇に移されては困りますね。  

 

今日の讀書・・昨夜、風間真知雄著「耳袋秘帖」シリーズ第三册、『淺草妖刀殺人事件』(だいわ文庫)讀了。 

 

今日の寫眞・・國會議事堂への道(その二)と、沖田総司の肖像。

 




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