二〇一六年四月(卯月)十一日(月)癸亥(舊三月五日 曇天一時晴

 

今日も、『貞信公記』 を讀みつづけました。ところが、昨日、延喜二十年(九二〇年)の十二月まで進んだのですが、いきなり、延長二年(九二四年)に飛んでしまつたのです。たしかに、「鎌倉時代前期に遡る現存唯一の古寫本である」、『貞信公御記抄』 と照らしてもまつたく同じですから、この 『貞信公記』 が、この 『貞信公御記抄』 に則つて翻刻されたことが確認されました。紛失して缺けた部分があるので、それで「抄」だつたのです。

 

その延長二年の正月から六月まで讀みました。味氣ない記述が多いなかでも、やはり、「心神不調、不扈従」とか、「有所勞不參入」、「依病不參入」とかで職務をサボつてゐることが目立ちます。正月にその記事が多いので、きつと寒さに弱いのかも知れません。ボラギノールはなかつたでせうから、痔持ちの右大臣も病には勝てないといつたところなんでせう。 

それででせうか、「依病不參」の日々がつづいたあとで、「三月十七日、金腋丹始服三丸」とあつて、この日始めて「腋丹」なる丸藥を三つ飲んだことが記されてゐます。それからも、「十八日、四丸」、「十九日、五丸」と飲んでゐますが、途絶えたのかなと思つてゐると、四月十四日になつて、「丹六十丸服了」と記されてゐて、決められた量を飲み終へたらしいのです。忠平さんはこの時四十四歳、以後、病をかかへながらも六十九歳で歿するまでがんばつたんですね。

 

それと、氣になつたのは、亡き父基經の墓參りや保明親王(醍醐天皇の皇子)の一周忌の法事を行つたこととともに、「六月十九日、式部卿親王薨」といふ記述です。同じ卅日には、「相明朝臣没」とあつて、身分によつてその死の表現が違ふことは承知でしたけれど、それはおいといて、「式部卿親王」といふ人物が氣になりました。 

この方は、貞保親王といひ、淸和天皇の皇子であり、かの陽成天皇の弟にあたります。陽成天皇はくせものでして、十六歳で天皇になり、八年間在位しただけで、讓位後も八十一歳まで生きつづけて回りを困らせた天皇、といふか上皇だつたのです。 

その弟ですから、問題兒かなと思ひきや、『大日本史料』(第一編之五) の當該個所によると、『古今著聞集』の一説話が引用されてゐて、なんと、管絃に長じた音樂家だつたやうなのであります。貞保親王が「五常樂」を奏すると、その演奏に感じた「唐家の廉承武の靈」が現れるといふ話であります〈古今著聞集卷第六 管絃歌舞第七の一〉。

 

そこで、『古今著聞集』を出してきて見ますと、その通り、一藝に秀でた方だつたやうで、他にも、さう、忠平さんとの關はりもわかりました。同じ『古今著聞集』の〈卷第十九 草木 第二十九の二〉に、「貞信公なつめをあひしてまいりけり、式部卿(貞保)親王の家に、よきなつめの木ありけり、其木をおろし枝にせられて、手つから身つから、花山院の北對の西の妻戸の庭前にうへ給ひけり、是によりて、其木左右なき名木にていまた有」、とかうあります。 

それにしても、忠平さん、いくらなつめが好きだからといつて、よりによつて親王家の庭のなつめの木を勝手に取つてしまふなんて、それほど見くびつてゐたんでせうか。でも、よく讀むと、「枝にせられて」とは、挿し木にしてといふことのやうですので、ほつといたしました。 

ところが、これで話が終はらなかつたのです。『大日本史料』(第一編之五) の引用では、式部卿親王は貞保親王であることが記されてゐるんですけれど、岩波文庫と角川文庫と新潮日本古典集成によると、重明親王(醍醐天皇の皇子)となつてゐるんです。さあ困りました。何か理由があるやうですが、ちよいと頭がぼ~つとしてきましたので、ここで終ります。 

 

今日の寫眞・・昨夜「手持ち撮影」にセットして撮つたかりんの實と、今日屆いた本。

 


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