四月六日(水)戊午(舊二月廿九日 晴

 

朝、また妻と母に責められて、まあ、いい天氣だつたこともありましたが、塀の蔦を剪定いたしました。すると、そこにモモちやんが散歩に出てきたので、ちよいと遊んであげました。モモちやんは、ラムとも仲よしでしたから、たまには會ひたいと思つてゐたところでした。 

そして、今日は集中して、『歴史紀行六十一渡良瀨紀行』を仕上げてしまひました。なんだか、溜まつてゐた仕事をやりとげたみたいで、心が輕くなりました。 

 

*三月廿六日「渡良瀨紀行」(その八) 

本來の「室の八嶋」は、かつて下野國府の周邊にあったと推定される広範圍にわたる湿地帶(沼澤地)に存在した景勝地だつたやうです。現在でも、思川とか姿川とか、少し離れて鬼怒川とかのとてもいい名前の川の流域になつてゐるやうに、その濕地帶の淸水や池から立ちのぼる水蒸氣が、煙のやうにも見えたのでせう、平安時代以來、煙の立つところとして知られてゐて、これを戀に身を燃やす「けぶり」に喩へて、多くの歌が詠まれたといふところらしいのです。 

でも、芭蕉さんがやつてきたのは元禄二年(一六八九年)三月二十九日(陽暦五月十八日)、日光街道をはづれて、日光東照宮などよりずつと名所であつた「室の八嶋」を期待して訪ねたのに、その頃は八つの島がある池に水がなかつたやうです。水がなければ、水蒸氣も立つわけがありません。中仙道の旅でもたびたびご登場願つた貝原益軒さんの『日光名勝記』(正德四年・一七一四年刊)によれば、やはり期待して訪ねたであらうに、「今ハ水なきゆへ、烟もなしといへり。わづかなる(みすぼらしい)所なり」と書き殘してをるのであります。 

でも、現在は水が豐富で、池の中には大きな戀、ではなく鯉の姿が數多く見られました。それで、ぼくたちも橋を渡つてみました。八つのそれぞれの島には、各地から靈驗あらたかな神々が勧請された小さな祠がありました。一度にお詣りできるので、これは便利だつたかも知れません。 

 

ところで、大神神社のことですが、 曾良さんは、「ここの祭神は、富士の淺間神社と同じ神であります」、とおつしやつてゐますけれど、境内の説明板によれば、「今から一八〇〇年前に、大和国三輪山の大三輪神社の分霊を奉祀し建立されたと伝えられ、別名『八島大明神』。境内の池には八つの島があり、八神が祀られています」とありました。 

たしかに、奈良時代以前にまで遡る古社であることは確からしく、本殿も周圍の雰圍氣も、それらしい風格を漂はせてゐるやうにお見受けいたしました。けれども、どうなんでせう。「付近には古墳が多く、一帯は古代下野国の中心であった」、とも書かれてありますから、いづれにせよいにしへはるかな景勝の地ではあつたんでせう。 

とまれ、名所舊跡とはこんなものなんでせう。芭蕉さんですら期待はづれだつたんですから、ぼくらをしてをやといふところで、お互ひ、言葉には出さぬとも、汗ばみはじめたからだを引きずつて、足取り重く歸路についたのでありました。いへ、たいへん興味深く、面白かつたことはたしかですよ。はい。

 

歸りは、川野さんから、栃木驛で特急に乘り換へるのがいいと敎へられてゐたので、野洲大塚驛で特急電車の時刻を聞きました。栃木驛一五時三七分發の 〈特別急行《きぬ》一二八號 淺草行〉 の指定券を求め、各驛停車に乘られる川野さんと蓮見さんとは栃木驛でお別れして歸つてまゐりました。 

途中、車窓から、ところどころでまだ黑い煙が立ちのぼつてゐるのがながめられ、ふと、消防團の靑年たちの淸々しい顔が思ひ浮かびました。(終り) 

 

今日の寫眞・・塀の蔦の剪定とモモちやん。それと、神社の裏で、何かを狙つてゐる我がノラのコヤタ。我が家のその他のノラたちも、けつこう遠くへ遊びに行つてゐるやうなのであります。 

「渡良瀨紀行」、最後の寫眞、四枚。

ステレオ立體寫眞。千鶴幼稚園が滿開!

 




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