四月五日(火)丁巳(舊二月廿八日 小雨のち曇天

 

寒い一日でした。かういふ日は、横になつて本を讀むに限ると思ふのですが、「渡良瀨紀行」がまだ書き終へてゐません。忘れないうちにと思ひ、參考書を傍らにして書き進みました。そしてどうにか書き終へました、が長くなつたので、後半は明日掲載したいと思ひます。 

また今日は、『歴史紀行六十一』の編集を進めました。  

 

*三月廿六日「渡良瀨紀行」(その七) 

さてさて、寄り道ばかりで、肝心の「室の八嶋」ですが、大神神社の境内にたしかにありました。まあ、有名なわりには、風變はりな庭園といつた感じでせうか。木々に圍まれた大きな池の中に島が點在し、橋を渡つて八つの島を通り抜けられるやうです。 

ですが、その前に、その入口の橋のそばに建つ芭蕉さんの句碑を確認しておきませう。 

いと遊に結びつきたるけふりかな 

とあります。 

が、これは、ご存じの方もあるかと思ひますが、『奥の細道』本文には記されてをりません。實は、これは、同行した曾良さんの『曾良隨行日記』にでもなく、曾良さんの『俳諧書留』の、その冒頭に記された句なんです(岩波文庫版『奥の細道』に所収)。 

まあ、そのわけといふかいきさつはよく分かりませんが、たぶん、芭蕉が口ずさみでもしたのをメモしたのだらうと思ふしかありません。

 

この芭蕉さんのおかげで有名になつた「室の八嶋」ですが、この句を殘したくらゐで、芭蕉さん自身は、あまりといふかほとんど感心も感激もしなかつたやうなのが氣にかかります。 

それは、『奥の細道』を見れば一目瞭然です。まあ、一應ここまで來たんですから、開いてみますが、とにかくつまらないといふか、よくわからない記述です。原文を寫すべきですが、ぼくの掟を破つて現代語譯で綴ります。 

 

室の八嶋明神に参詣した。同行の曾良は、「ここの祭神は、木花開耶姫 (コノハナサクヤヒメ)と申して、富士の淺間神社と同じ神であります。この姫が、[瓊瓊杵命(ニニギノミコト)との一夜の交はりで懐妊したため]、その貞操を疑はれ、これに怒つた姫は戸の無い塗り籠の産室に入り、[もし自分に不義があつたのなら胎兒もろとも焼け死ぬが、さうでなければ母子共に生きて還るであらうと言ひ殘して]、そこに火を放ち、猛火の中で火々出見尊 (ホホデミノミコト)を出産し、生きてその疑ひをはらしたといひます。[室から烟が立ちのぼつたので]、だから、ここを室の八嶋といふのです(この故事から、池の中に八つの島があるこの「八島」が、竈・釜のことを指すやうになつたと思はれます)。また、このような謂れがあつたからこそ、ここが煙を主題とする歌枕となったのです」と言ふ。さらにまた、焼くと死臭がするといふので、このしろといふ魚を食べることが禁じられてゐる。ただし、このにおひを利用して、娘が死んだといふことにして、娘の提供を強要する國守をあざむき、子(娘)の命を救つた「子の代(このしろ)」といふ縁起傳説もあるといふ。 

 

以上です。ちよいと意味合ひに色をつけましたが、面白いと思つた人は手をあげてくだ、さらなくてもいいですが、これですものね。自分の言葉ではなく、曾良さんに語らせてゐるところなんか、まつたくひとごとのやうです。きつと、芭蕉がそれまで聞いて抱いてゐた「室の八嶋」のイメージと全く異なつてゐたんでせう。そのため、芭蕉は、「室の八嶋」の印象を一言も述べてゐないのであります。はい。 

「いと遊に結びつきたるけふりかな」の句だつて、「糸遊」とは、春の季題で「陽炎(かげろふ)」のことださうですから、陽炎のやうに立ちのぼる「けふり」を想像してゐたのに、はかなくも悔しい思ひだけが立ちのぼるわい、といつた心境だのかも知れませんね。 

それで、文意の詮索はやめときますが、このやうなまとめかたしか出來なかつたのは、芭蕉さんの罪ではなく、その名聲だけがひとり歩してゐた當時の事情にもよるのではないでせうか。 

といふのは、ここは、「けぶり立つ室の八嶋」と呼ばれて、平安時代以來、東國の「歌枕」として都まで聞こえた名所で、多くの歌人が歌に詠んでゐるからなんです(註)。 

*註・・以下はその歌の数々です。 

いかでかは思ひありとも知らすべき室の八嶋の煙ならでは(藤原実方) 

人を思ふ思ひを何にたとへまし室の八嶋も名のみ也けり(源重之女) 

下野や室の八嶋に立つ煙思ひありとも今日こそは知れ(大江朝綱)

煙たつ室の八嶋にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける(大江匡房) 

いかにせん室の八嶋に宿もがな恋の煙を空にまがへん(藤原俊成) 

恋ひ死なば室の八嶋にあらずとも思ひの程は煙にも見よ(藤原忠定) 

 

今日の寫眞・・大神神社案内圖より室の八嶋の圖。芭蕉句碑と八嶋全貌。そして、源宗宇(むねゆき)の歌碑 「絶えず焚く室の八嶋の煙にもなを立ち勝る恋もするかな」。この人は三十六歌仙の一人でありまして、『古今和歌集』にも六首入集。

 



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