四月三日(日)丙辰(舊二月廿七日 曇天、一時小雨

 

この數日、出歩くことが多かつたので、今日は一日靜養と稱して讀書三昧。昨年讀みかけた、『紀貫之』を讀みすすみました。 

それと、三月廿六日の「渡良瀨紀行」、途中まででしたので、どうにか書き終はらさうとがんばりましたが、さうは問屋が卸しませんでした。 

 

*三月廿六日「渡良瀨紀行」(その五) 

新栃木驛からは單線の宇都宮線に乘りかへ、二つめの野州大塚驛で下車しました。眺め渡せば野州、下野(しもつけ)の國に來たと言ふ感じが身に染みましたね。いや、わびしい田舎に來たと言つただけでは申しわけありませんので、かういふ表現になりましたが、人影はないし、驛前といふのに商店も見えません。たしかにさびれた片田舎の晝下がりの道を、ここからも川野さんの先導で、目的地に向かひました。が、時間はすでに一二時半。その前に晝食といふことで、これまた川野さんが下見で探してくれたそば屋をめざしました。 

驛前の看板に、「国指定 下野國庁跡 ここから約4㎞」とありました。それで、驛前の學校名が國府北小學校と名づけられたのでせうね。さういへば、國府跡だけでなく、日光街道を歩いたときには、おまけで、藥師寺跡や天平の丘公園にあつた國分寺跡などを見學したことを思ひ出しました。國府跡はここから南、國分寺跡は東南、藥師寺跡は東にわづかのところにあります。天平の昔から平安時代にかけては開かれた地域だつたやうなのです。まあ、そのままの歴史といふか、景色を引きずつてゐると言つてもいいやうな道を歩きました。 

驛から、十二、三分で、大神神社に到着しました。大きな鳥居がありましたけれども、そこは西參道と呼ばれる裏門でした。そば屋は、神社を通り過ぎたところにあるといふので、神社を左手に見ながら、その脇道をずんずんと進みました。 

途中から表參道に合流し、鳥居を出ると、そこに主要地方道2號線に面した、「蕎麦 一の坊」がありました。すでに午後一時になんなんとしてゐます。メニューのどれもが美味しさうでしたが、みなで天もりを注文していただきました。 

さうだ、ここは、川野さんが下見のときに、「犬を連れた妙に元気なオジサンに食事処をいろいろ教えてもらいました」、といふところでした。そのおぢさん、「元県会議員の先生」だつたやうで、「妙に元気」だつたことがうなづけます。 


 さて、腹もくちくなり、大神神社の表參道をもどつて室の八嶋に向かふはづでしたが、その途中に、「親鸞上人草庵遺跡」とも「親鸞聖人百日御逗留地」とも書かれた、親鸞の銅像が建つ場所に來ました。どんな謂れがあるのでせうか。 

またもや、川野さんの下見報告を思ひだしてしまつたんですが、川野さんが、「境内の案内図にある親鸞聖人史跡へ、お宮参りに見えた地元のおばさんに連れて行ってもら」つたところ、「彼女は菅笠をかぶり杖をついた親鸞立像をずっと松尾芭蕉と思っていたそうです」、とあつたんです。まあ、かういふ感違ひといふかいいかげんさといふのは誰にでもあることですから、一概に責められませんけれど、おばさんの驚きやうを思つたらおかしくなつてしまひました。 

なんでも、この地を教化するためにやつてきた親鸞さん、百日逗留した際に、「妻に対する嫉妬の悪念に燃え、大蛇と称して恐れられてゐた村長を教化濟度して草庵を創建」したところ、なのか、その記念なのか、そこがよく分かりませんでした。銅像の臺座には、「花見岡安養寺縁起」とありますが、この安養寺は宇都宮に存在するお寺であつて、その關係が、ここでは不明。もつと理解しやすいやうに書いてくれればいいのになあと思ひました。 


 

今日の讀書・・藤岡忠美著『紀貫之』(講談社學術文庫)を讀みつづけました。昨年讀み出して中斷してゐたのですが、『古今和歌集』と『大和物語』を讀みすすんでゐるので、この邊で學んでおく必要を感じたからです。

 

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