三月廿八日(火)己酉(舊二月廿日 朝小雨、曇りのち晴

 

昨夜、ネットで、《木簡・くずし字解読システム》 といふのを見つけました。奈良文化財研究所と東京大學史料編纂所が開發し、誰でも自由に使用できるといふものです。 

「このデータベースでは、検索対象の画像を解析し、奈良文化財研究所が蓄積する木簡の字形・字体と、東京大学史料編纂所が集める古文書・古記録の字形・字体のそれぞれから、類似する文字画像を表示します。読めない文字についても似た字形の文字を探せる画期的なシステムを、連携検索として実現しました。」 

使ひ方はわりと簡單でした。解讀できない文字をデジカメで寫し、一字づつ、所定の個所に入力すると解讀、といふか、似かよつた樣々な文字が示されるといふものです。 

ただ、古文書や古記録ではなく、『和歌奇特物語』(古典文庫所収) といふ本からの文字だつたからでせうか、「心」といふ文字が解讀されませんでした(寫眞下、左參照。右の字も分かりませんでした!)。 

 

月曜日です、弓道場へ行き、お稽古をしてまゐりました。ただ、先回、弦が切れてしまひ、それを今日取りかへるのにだいぶ時間がとられ、稽古はいつもの半分ほどでした。 


 

*三月廿六日「渡良瀬遊水地ヨシ焼き」(その三) 

しかし、堤防のこちら側でも、右手のはうから煙が立ち上りはじめました。それにつれて、ぼくたちも右手に移動を開始。すると、目の前の柳の木の向かうから煙がもくもくとあがり、太陽の日差しまでさへぎる勢いです。が、それも一時的で、どう見てもいい寫眞にはなり得ない状況がつづきます。 

そこに、消防團の方々が近づき、倒れたヨシを束にして火をつけるのですが、ぼくたちの肌には冷たく感じる風も、火の勢いを加勢するほどの力はなささうで、すぐに衰へていきました。そこに、こんどは、なにか液體を背負つた團員が登場。ぼくははじめ火の延燒を助けるための油かと思ひましたが、同行の蓮見さんが飛び出していつて聞いたところ、水だといふことでした。 

たしかに、公園の芝生のはうへ火がおよばないやうに、しゆしゆと、時々水をかけてゐました。ギャラリーのみなさんも、撮影は二の次にして、ちよろちよろの火勢を應援すべく目をみはつてゐます。こちらで火があがればそろつて顔をむけ、あちらで火勢がませば一齊に近づき、それでもいい寫眞が撮れることを期待しながら、右往左往しつつ時々はシャッター音を響かせてゐました。 


 

でも限界でした。移動してゆく方、歸り支度をしはじめた方、ぼくたちはそれでも名殘惜しくヨシの原に沿つて歩いていくと、用水路のやうな水場の脇で火が燻つてゐて、それが落ち葉焚きのやうで暖かく、しばしみなさんと暖をとつて過ごしました。お芋でもあれば、燒いてゐたかも知れません。隣のおばさんなんか、ビールを用意してきてゐて、寒風の中飲んでゐましたが、焚き火にあたりながらほつとしたやうでした。曰く、今年は一番だめだね、何年も來てるけど、ぜんぜん迫力がないと誰に言ふとなく口にしてゐました。 

さうでせう、土手にあがればさらに廣がるヨシ原の火炎は素晴らしかつたに違ひありません。三年前に來られた川野さんの寫眞を見れば分かります。でも、それを言つても仕方ありません。せめて焚き火にあたつて名殘を惜しもうとしてゐると、そこに、消防團の靑年が二人、焚き火の目の前の用水の堀を越えて、そこに生えるヨシに火をつけたのです。 

が、それと同時に、さらに右手から、同調するやうに火の手が上がり、煙を立ち上らせて近づいてきます。その時です。いきなり上にのびあがつた黑雲が渦を卷きだし、あつと言ふまもなく、つむじ風といふのか、これを龍卷と言つたらいいのか、目を見張りつつ、カメラのシャッターを押しつづけました。が、またあつと言ふまもなく消えていつたのにも驚きました。 



 

いやあ、焚き火にあたつてゐてよかつたです。きつと、このつむじ風を寫眞におさめた方はさう多くはゐないのではないでせうか。もしかしたら、ぼくだけだつたかも知れません。回りを見てゐる暇はありませんでしたからね。 

するとこんどは、さらに右手では、炎が俄然とわき上がり、近寄つてゐたご婦人がまきこまれさうになり、みなはらはら、といふか、早くどいてよ、いいシャッターチャンスなんだからさあ、と言つた聲も響き渡りました。みなさん飢えてゐたんですね。ぼくたちも、この時とばかり、カメラを向けつづけました。 

でも、これがハイライトでした。あとは火勢の衰えるばかりとなつたことをたしかめて、みなさんとともに歸路につきました。 

川野さん曰く、三年前に比べてヨシ焼きの火炎に迫力が足りませんでした、とは言へ、ぼくなんか堪能しましたよ。初體驗でしたが、たいへん面白かつたと思ひます。(つづく) 


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