二〇一六年三月(彌生)一日(火)壬午(舊正月廿三日 晴

 

「酔いどれ小籐次留書」シリーズの合間に、寢床で『古今和歌集』を讀んでゐます。まあ、眠くなるまでの間、文字をながめてるだけなんですが、面白くなつてきました。 

小松英雄先生のご本を精讀したおかげで、『古今和歌集』を讀む、といふか樂しみ方がだんだん分かつてきたんです。讀み方といふより、理解の仕方、想像力の働かせかたといつたはうがいいかも知れません。「みそひと文字」に凝縮されたひとつの世界が時と場所を越えて味はへるなんてなんともありがたいことです。同時に、三種のくづし文字を味はふことができるわけですから、一石二鳥でもあります。いや、眠氣を誘つてくれますから、一石三鳥ですね。 

補足を加へれば、讀むときの態度が寛容です。氣持ちの切りかへと言つたはうがいいかも知れませんが、ふ~む、さう、ステレオ寫眞を見る要領とでも言ひませうか。立體寫眞とも言ひますが、平面に竝べた二枚の寫眞を寄り目の要領で見ると、立體的に寫眞が見えてくるんです。その要領で和歌を讀むと、つまり、上下のことばを重ねあはしたりしながら、立體的に想像力をはたらかせていくと、全體像が心の中に浮かび上がつてくるのです。淡く、ぼんやりと、そしてあざやかに、詠み人が心で見て描いた世界が見えてくるんですね。 

ぼくは、このステレオ(立體)寫眞を子どもの頃から知つてゐましたが、二十年ほど前に、あの、『老人力』で有名な赤瀨川原平さんが 『ステレオ日記 二つ目の哲学』(大和書房)といふ本を出してゐるので紹介しませう。

 

「自分の体の不思議というのは、自分でやってみなければわからない。自分の体が出動しないとわからない。そこが、与えられる驚きとは違うところだ。映画に感動するのも、コンサートに行って感動するのも、それは与えられた感動である。それが悪いというのではないけれど、ステレオ裸眼視の感動は、それとは少し次元が違う。自分の変化に自分が驚く、いわば醒めた昂奮とでもいうものだ。理知的な昂奮といってもいい。哲学的な快感、といってもいいすぎではない。つまり一時の感動に終わらず、そこから不思議が深まる。不思議が開花する」。

 

どうですか。「理知的な昂奮、哲学的な快感」ですよ。『古今和歌集』を讀んでゐて感じる昂奮と快感にも通じるとぼくは思ひます。 

その實例のために、我がベランダから、二組四枚の寫眞を撮りました。カメラで、同じ景色を、目の幅と同じくらゐ左右に移動して撮ります。ただそれだけです。今日の寫眞を參考に試してみてください。 

 

今日の讀書・・佐伯泰英著「酔いどれ小籐次留書」シリーズ第十二册、『杜若艶姿』(冬幻舎時代小説文庫)讀了。 

 

今日の寫眞・・ステレオ寫眞二組。寄り目をして、三枚に見えたところの眞ん中の一枚にピントをあはせていきます。すると、あら不思議、前後立體にみえるではありませんか! まづ、自分の指を二本立てて、三本に見えるやうに訓練してみてくださいませ。 

それと、ネット注文で屆いた〈江戸・東京の坂〉の本二册。著者の山野さんが日本坂道學會の會長で、あのタモリが副會長らしいのです。今日の切り抜き。

 


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