二月廿九日(月)辛巳(舊正月廿二日 曇天、時々雨のちやむ

 

晝から弓道場へ出かけました。今日も、第一射が的中し、調子よくも樂しいお稽古でありました。男四人、休憩時間にはお菓子をつまみながら談笑。林さんからは、手作りの小さな瓢箪をいただきました。庭になつたさうで、ギリ粉を入れるのにいいかなと思ひました。 

 

(*以下、十九日《國會議事堂をめざす》のつづきです) 

彌生坂は、他にくらべて長い坂ですから、古いと思ふのですが、ぼくの參考書を見ても出てないんです。參考書といつても、橫關英一著『江戸の坂東京の坂』(中公文庫)の〈正續〉と、調布の古本市で求めた、石川悌二著『東京の坂道 生きている江戸の歴史』(新人物往来社)だけなんですが、ちよいとこれからも必要になると思ふので、江戸・東京の坂關係の本を探してみるつもりです。 

ですから、彌生坂の途中にあつた説明板をそのまま寫しておきます。 

 

「かつてこのあたり一帯は『向ヶ岡弥生町』といわれていた。元和年間(一六一五~二五)の頃から御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部、地震研究所)であった。隣接して、小笠原信濃守の屋敷があり、南隣は加賀藩前だけの屋敷(現東大)であった。 

明治二年(一八六九)、これらの地は明治政府に公収されて大学用地になった。明治五年(一八七二)には、この周辺に町○が開かれ、向ヶ岡弥生町と名づけられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって弥生坂と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので鉄砲坂ともいわれた。 

弥生とは、水戸徳川斉昭候が、文政十一年(一八二八)三月(弥生)にこのあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからという。 

  名にしおふ張るに向ふが岡なれば 世にたぐひなき花の影かな 徳川斉昭 」

 

なんだ、彌生坂は明治になつてからつけられた「新しい坂道」だつたんですね。それで江戸の坂には含まれてゐないわけが分かりました。 

ところで、この本郷彌生交差點を中心にしたあたりには、有名人の舊宅が犇めいてゐるんです。サトウハチローとその父親の佐藤紅緑をはじめとして、寺田寅彦、佐佐木信綱、宇野浩二、徳田秋声、樋口一葉、宮沢賢治、坪内逍遥、少し離れて、二葉亭四迷や魯迅、谷崎潤一郎等、いちどはみな訪ねてみたいものです(寫眞の地圖參照)。(つづく) 

 

今日の讀書・・佐伯泰英著「酔いどれ小籐次留書」シリーズ第十一册、『僞小籐次』(冬幻舎時代小説文庫)讀了。 

 

今日の寫眞・・《根津權現かいわい浪漫ちっくマップ》部分。弓道場控室にて。

 


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