二月廿二日(月)甲戌(舊正月十五日 終日曇天

 

今日は、父母の結婚記念日。といふのは、明日がぼくの誕生日で、その一日前だから忘れることもできないのであります。ちなみに妻は雅子様と同じ誕生日で、そのため、小生夫婦は、〈壽通り〉の皇太子夫婦、と言はれてはをりませんが、まあどうにか仲よくやつてゐますです。はい。 

 

今日も終日讀書。佐伯泰英著「酔いどれ小籐次留書」シリーズの第五册、『孫六兼元』(冬幻舎時代小説文庫)を讀み上げ、さらに六冊目に入りました。刃物や刀を研ぐ場面が多くて、滿足しました。 

だからといふわけではありませんが、出かける氣がおきず、たうとう弓道のお稽古を休んでしまひました。 

 

(*以下、十九日《國會議事堂をめざす》のつづきです) 

西蔵院不動堂前の廣い通りを越え、次第に細く、ますますくねくね度を増した路地をたどつていくと、圓光寺といふお寺の前に出ました。板塀から大きな藤棚が見えました。きつと季節には見事な藤の花が咲き亂れるのだらうなと、思はず想像してしまふくらゐご立派な藤棚でした。さういへば、この圓光寺は、根岸古寺めぐりの八番札所にあたるさうです。 

ここは、根岸五丁目、四丁目と歩いてきて、三丁目のはづれです。根岸小學校の脇から廣い道路に出ると、そこは北西方向から延びてきた尾久橋通りが突き當たつた丁字路で、左に曲がると、やつと言問通りに出ることが出來ました。鶯谷驛前交差點です。鶯谷驛の北口にあたります。時間は一二時四〇分。ここまで一一三六〇歩でした。

 

これからは言問通りを進めば、不忍通りを經て、そのまま本郷通り、舊中仙道へ出られます。ただ、宇都宮線・高崎線・京浜東北線・山手線の線路を越えなければなりません。江戸時代はこのあたりを境にして臺地が廣がり、坂を上がらなければなりません。上野臺地とでもいふのでせうか。それであちこちに坂道があつたと思はれますが、言問通りが、その一つの坂道で、寛永寺坂といつたやうです。 

しかし、すでに坂道でなくして階段でした。上りきると線路を越える陸橋のたもとに出て、寛永寺橋を渡ります。振り返るば見晴らしがよく、先ほどまで歩いてきた家竝みが見渡せました。すると住居表示が根岸から、上野桜木に變はりました。左手奥は寛永寺と東京國立博物館、右手奥は谷中靈園です。 

橫關英一著『江戸の坂東京の坂』(中公文庫)には、寛永寺坂のことを、「台東区上野桜木一、二丁目境。寛永寺を右に、谷中墓地の入口を左に、東北方根岸二丁目のほうに下る坂」とあります。

 

しばらく平坦な道路を進みました。が、このあたりの下に、京成電車が通つてゐるはづで、だんだん下り坂になつてきました。すると見覺えのある上野桜木交差點にさしかかりました。右角に、舊吉田酒店で下町風俗資料館展示場の昔ながらの商家の建物が見えてきましたが、今日は素通りします。向かひ角の喫茶店は相變はらずの人氣で、五、六人が竝んで待つてゐました。(つづく)

 




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