二月廿日(土)壬申(舊正月十三日 終日雨

 

外は雨。終日寢轉んで佐伯泰英を讀みつづけ、三册目が終はつて四册目に入りました。主人公が、砥石を擔いで商賣をしながらの物語といふのが、砥石と砥ぎもの好きのぼくにはこたへられませんね。 

 

(*以下、十九日《國會議事堂をめざす》のつづきです) 

まづは三ノ輪を目指して歩いて來ましたが、結局は出たとこ勝負でした。ホームレスつぽいおぢさんの助言がなければ操車場を迂回してゐたかも知れません。やはり、南千住驛に來て正解でした。 

つづいて、いかにも下町の通りといつた樣子の仲通り商店街を通り抜けて、國道4號線に出ました。國道を渡つた先には都電荒川線の三ノ輪橋驛がありますが、ぼくは左折して、日本橋方面に向かひました。 

常磐線のガードをくぐると、左手に、遊女の墓のある淨閑寺が見えました。〈投げ込み寺〉とも呼ばれるお寺で、訪ねてお參りしたことがありましたが、今日は先を急ぎます。明治通りとの交差點は大關横丁と言ふんですね、信號を待ちながらふと見ると、住所表示が〈台東区根岸五丁目〉となつてゐるのにびつくりしました。ええつ、もう根岸なのと思つたのです。 

たしかに、これからたどらうと考へてゐた道は、地圖では不思議な曲線を描いてゐて、かつての主要道路ではないかと思つたのです。交差點を渡つてから右に曲がり、一つ目の信號を左折したところからはじまるくねくね道です。住所表示を見ると、道を挾んで右が荒川區東日暮里、そして左側が台東區根岸なんです。まさに區堺の道なんですが、その根岸が以外に南千住方向に長くのびてゐたんですね。曰く付きの地名のやうな氣がしました。 

その通り、歩いて行くと、〈池田屋敷跡〉なんていふ説明板が現れ、そこには、「旗本三千石池田播磨守屋敷は明治通りの南側で、北の宗対馬守下屋敷に対していた。池田家は寛文元年(一六六一年)に幕府より屋敷を拝領、以後、幕末まであった」と書かれてありました。池田家つて、歴史上どんな働きをしたのでせうか、ちよいと氣にかかりました。 

つづいて現れたのが、〈史蹟 背面地藏尊〉と書かれたお寺です。せつかくですから覗いてみました。それがまたずつと奥まつたところにあり、しかもお堂の中には眞新しい地藏がたつてゐました。ところが、よく見ると、その後ろにこれはこれは古くて薄汚れた大きな地藏さんが控へてゐて、古びたはうが〈背面地藏〉であることが分かりました。〈背面〉と書いて〈うしろむき〉と讀むのださうです。新しいはうは、〈御前立〉らしいです。 

この古びたお地藏さん、「創立一六四七年」とあり、かつては日光街道に面してゐたのが、街道が整備されて。お堂の後ろ、つまり背面を通るやうになつたので、新しい街道からして、後ろ向きに見えるのでかくは呼ばれるやうになつたといふ次第であります。 

といふことは、ぼくが選んだ通りは、やはりかつては街道だつたところなんですね。ちよいとばかり疑問をもつて歩いたおかげで面白いことを發見出來ました。(つづく)

  

今日の讀書・・「酔いどれ小籐次留書」シリーズの第三册、『寄殘花戀』(冬幻舎時代小説文庫)讀了。

 




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