二月十三日(土)乙丑(舊正月六日 晴、暖かい

 

終日讀書に專念し、たうとう、小松英雄著『新装版 みそひと文字の抒情詩~古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』 を讀み終へました。『仮名文の構文原理[増補版]』と、『古典和歌解読・・和歌表現はどのように深化したか』につづく、いはば三部作の締めくくりで、重複といふか、基本的なことを絶えず繰り返してくれたので、詩歌には弱いぼくのやうな頭の持ち主にさへたいへんよく理解できましたし、勉強になりました。 

まあ、たくさんのことを敎へていただきましたが、小松先生がおつしやりたいことを、このへんでまとめておきたいと思ひます。

 

「日本語史研究に携わってきた筆者がこのような主題の本を書くに至った経緯を説明しておこう。・・中年に達してから藤原定家の創案した独自の用語原理に関心をいだき、・・仮名文学作品のテクストを本気で読みはじめた。・・『古今和歌集』高野切の複製を、一字一字確かめながら読んでみたが、しばらくして、注釈書に書いてあることはかなり怪しいと気がつくようになった。驚いたことに、駆け出しの筆者よりも和歌表現が読み取れていない。理解を妨げるノイズだらけで、知りたいことは素通りされている。現代語訳は日本語として意味がわからなかったり、・・そもそも、注釈者は、写本のテクストに漢字を当て、句読点や濁点を付けたあとで考えている。そういう読みかたをしたのでは、見えるものも見えなくなる。最新の研究成果を知りたいのに、平安末期以来の注釈の焼き直しと、教条的古典文法の説明ばかりという感じである」(三~四頁)。

 

それで、先生の一字一句をなほざりにしない解析には熱がこもつてゐたんですね。ところが、先生の挑戰ともいへるこれらの書は、當の研究者たちからは無視されつづけてきました。

 

「静かな海面に大きな波を立てたが、火のない所に煙を立てたわけではない。千年一日のごとき不毛の海を豊かな海に変えるためには、堅牢な防波堤を荒波で破り、新しい潮を招き入れなければならない。そういうつもりで『やまとうた』(講談社・一九九四年)を書いてから、九年余を経過したが、残念なことに防波堤はびくともしていない。この領域では論理も理論もまともに取り合ってもらえないことを痛いほど再認識させられた。 

筆者の考えが間違いなら、黙殺せずに、間違いだと、根拠を示して批判してほしい。論争のないところに進歩はない。体勢を整え直して、再度、防波堤の突破を試みることにした。『本居宣長の遠鏡を一歩もいまだにでてゐない』という、半世紀以上も前の亀井孝の批判をそのまま繰り返さなければならない現状がむなしい」(三五一頁)。

 

ぼくは、小松先生の言ふことに付いて行きたいですね。本論の 「ねてもみゆ ねてもみえけり おほかたは うつせみのよそ ゆめにはありける」(哀傷歌・八三三) の解析を讀んでゐて感動しましたものね。先生の書き方が上手といふよりも、歌が内包する思ひを解き放つたといふか、歌ひ手の思ひが傳はつてくるんですね。三六〇頁もある本でしたけれども、できれば、この調子で、「『古今和歌集』の全歌注釈を執筆」していただきたいと思ひました。 

 

今日の寫眞・・讀み終はつた、小松英雄著『新装版 みそひと文字の抒情詩~古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』(笠間書院)と、引用のたびに必ず目を通してゐる我が愛讀書の『古今和歌集』。明治二十三年の和本ですが、文部省がくづし字の使用を制限する「小學校令」が出される十年も前ですから、まだまだ江戸の和本といつてもいい古書です。

 


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