二月十日(水)庚戌(舊正月三日 晴

 

終日讀書に專念。小松英雄著『みそひと文字の抒情詩~古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』を繼讀中です。 

長文の本論7、「あまのかわあさせしらなみたとりつゝわたりはてねはあけそしにける」(秋上・一七七)につづいて、本論8の 「あきのゝにひとまつむしのこゑすなりわれかとゆきていさとふらはむ」(秋上・二〇二)と、本論9の 「たつたかはもみちみたれてなかるめりわたらはにしきなかやたえなむ」(秋下・二八三)。そして、本論10 「ほとときすなくやさつきのあやめくさあやめもしらぬこひもするかな」(戀一・四六九)。 

今日は、かつて切り取つておいた教科書の付録であつた〈文語文法表〉を探し出してきて、小松先生が指摘してゐるところを確かめつつ讀みました。とくに助動詞が曲者で、この「なり」は傳聞・推定か、それとも斷定か。また、この「めり」は推定か婉曲かなど、先生の文面をたどりながら確かめましたが、ちんぷんかんぷんであきらめました。でも、先生は、「硬直した古典文法が適切な表現解析の障害になる」ことをたびたび指摘してをられるので、自分の感性を信じて讀むことが大切なんだと悟りました。 

或いは、「注釈書の水準が低いのは、固有名詞の詮索に血道をあげて、肝心の和歌表現に関心が向いていない」と、大變きびしいおことばです。 

例へば、これはちよつと脇道にそれた話題でしたが、『平家物語』の冒頭、「祇園精舎の鐘のこゑ、諸行無常の響きあり」について、從來の注釋書が、「祇園精舎」については細かに解説してゐながら、「鐘のこゑ」について、「オトでもネでもなく、コエと表現されていることに注目していない」、と指摘し、先生自ら解き明かしてをられるのであります。 

「『古今和歌集』の和歌は、数学にたとえるなら応用問題であるから、複雑な表現を解きほぐさなければ理解できないものであったが、そのなかでも、この和歌(9の「たつたかは」)は難解の部類に属している」、と言はれる通り、じつくりと味はふ心がないと胸に響いてこないものなのだと思ひます。 

それにしても小松先生の熱意には頭がさがります。きつと國文學界を敵に回しての孤軍奮闘の努力がつづいてゐるんだらうと思ひます。陰ながら應援してゐます。

  

今日の寫眞・・ベランダで憩ふ三兄妹の長男のコヤタ。それと、夕食をねだるモモ。でも、この二匹、寅を追ひ出してしまつたらしくて、今日は一度も姿を見せませんでした。それと、昨日求めた三册と今日の切り抜き。